宋史卷三百十二 列傳第七十一 韓琦

若年と直言

  • 韓琦、字は稚圭。相州安陽の人。父の国華に別伝あり。琦は幼くして優れ、20歳で進士に挙げられ第2位となった。授将作監丞・通判淄州、直集賢院・監左藏庫。高科登第者が次々顕職に転ずる中、琦は独り倉庫の官に留まり続けたが平然としていた。宮中の需要金帛が内臣の直批による無検証取得であったのを、伝宣合同司を復置し防察するよう請い、綱運の受領も内臣の監視待ちで数日露天に晒される問題を上奏し廃止させた。
  • 開封府推官、三司度支判官を経て右司諫となり、宰相王隨・陳堯佐、参知政事韓億・石中立が中書で建策なきことを4人まとめて弾劾、同日に4人とも罷免された。内降の停止と僥倖の抑制を求め、明得失・正紀綱・親忠直・遠邪佞を旨として前後70余の上疏を行った。王曾は「今の言者は激せずして畏顧が多い、卿の言は切実で迂遠でない」と評した。
  • 権知制誥、益州の飢饉に体量安撫使として赴き、郡県の督賦を緩め供物代を支払わせ、貪残不職の吏を汰い冗役数百を減じ、饑民190万を活かした。趙元昊反乱時、蜀から帰った琦は西師の形勢を詳論し即日陝西安撫使を命じられた。劉平が戦に敗れ捕らえられた際、宰相が誣告により平の子弟を収繫したのを琦が寃罪を弁じた。

西夏戦線での攻守と好水川の敗戦

  • 樞密直学士・夏竦の副として経略安撫招討使となり、元昊が鎮戎を侵すと、琦は攻守二策を馳せ奏し、仁宗は攻策を望んだが執政は難色を示した。琦は「元昊の総兵は4、5万に過ぎない、路ごとに守勢で分散すれば敵に遇うたび支えられない、一道にまとめて鼓行すれば必ず破れる」と論じ、鄜延・涇原に同時出征を命じさせた。元昊が和議を求めた際、琦は「無約の請和は謀計だ」として厳戒を命じた。案の定敵は山外を犯した。
  • 琦は大将任福に兵を付け懐遠城から徳勝砦へ、賊の後方を突き、戦い難ければ険を頼って伏を置き帰路を絶つよう戒め、命令違反は功があっても斬るとまで念を押したが、福は賊に誘われ好水川で全滅した。夏竦が福の衣帯から琦の檄を得て「罪は琦にない」と述べたが、琦自身も上章して自劾、一官のみ奪われ知秦州に留まりすぐ復した。四路の帥が置かれると琦は秦鳳経略招討安撫使を兼ね、慶暦2年、三帥がともに観察使に換えられた際、范仲淹・龎籍・王沿は拝命を拒んだが琦は独り受けて辞さなかった。陝西四路経略安撫招討使として涇州に屯し、范仲淹とともに兵間で名声を得て天下は「韓范」と称した。

枢密副使としての建言

  • 宿衛から来た東兵が労苦に慣れないため土兵を増やし代戍させ、建徳・順軍を建て蕭関・鳴沙の道を蔽い、横山を取り河南を規することを謀ったが、元昊が称臣してきたため枢密副使に召された。元昊が契丹を後ろ盾に強く要求すると、宰相晏殊らは戦を厭い一切従おうとしたが、琦は不便を陳べ清政本・念辺計・擢材賢・備河北・固河東・収民心・営洛邑の7事を先行すべきと説き、さらに救弊8事(選将帥・明按察・豊財利・遏僥倖・進能吏・退不才・謹入官・去冗食)を建言した。二府の合班奏事で琦は必ず尽言し、中書所管の事にも指摘を加え、帝は「韓琦性直」と評した。
  • 琦・范仲淹・富弼は海内の人望を背景に同時登用され中外に期待されたが、小人の讒言が続き仲淹・弼は次々罷免され、琦の弁明も功を奏さなかった。尹洙と劉滬の水洛城争いで洙を支持したことに朝論が不同意で、資政殿学士・知揚州から鄆州・成徳軍・定州安撫使に転じ大学士、観文殿学士を加えられた。定州兵が貝州平定の功に不満を漏らし譟動しかけたのを、軍制の厳正化と論功・撫恤の両立、古の三陣法の日夜訓練で中山兵は河朔第一の精鋭となった。京師発の龍猛卒の保州行が人害となったのを定州で悉く留め素行の良い者に替え、饑民数百万を振済した。
  • 武康軍節度使・知幷州。廖浩然の中貴勢を借りた貪恣を糾し、契丹が天地廟地を冒占していたのを召見して過去の経緯を示し斥地を返還させ、陽武砦地の侵耕には塹を掘り石を立てて限った。潘美の忻代寧化の空塞方策で放棄された良田を、北界十里を禁地とし南は弓箭手に開墾させる案を提案し墾田9600頃に及んだ。知相州を求め、嘉祐元年三司使に召され未至のまま枢密使を拝し、3年6月同中書門下平章事集賢殿大学士、6年閏8月昭文館大学士監修国史・儀国公。

皇嗣選定の主導と英宗擁立

  • 仁宗が3王を失い病を得て中外が恐懼する中、包拯・范鎮らが皇嗣早定を求めていたが仁宗は躊躇していた。琦は「皇嗣は天下安危の係る所、禍乱は皆策の遅れに起因する、陛下は宗室の賢者を選ばれるべき」と進言、仁宗は後宮に子ができるのを待つと答えたが女児が生まれた。琦は漢書の孔光伝を懐に「成帝は嗣なく弟の子を立てた、太祖の心を心とすべき」と再び説き、曾公亮・張昇・欧陽修とも共に極言した。司馬光・呂誨の上疏を琦が読み上げると、帝は「朕はとうに決めていた、誰がよいか」と問い、琦は「これは臣らが議すべきことではない、聖断によるべき」と答えた。帝は「宮中で養う二子のうち小さい方は純だが聡くない、大きい方がよい」と述べ、その名は宗実(英宗の旧名)であった。
  • 濮王の喪に際し宗正に立てる議で「一旦行うなら中止できない、陛下が自ら疑わず決断すべき」と説き、内批で出させた。命が下ると宗実は固辞し、帝が再び琦に問うと「陛下は既にその賢を知って選ばれた、遽に受けるのは器識の遠大な証」と答え固く起用を勧めた。英宗が喪に服し続けて動かないのを、宗正の命は既に皇子と目されていたのだから名を正すべきと説き、皇子に立てる詔が下された。翌年英宗が即位、琦は仁宗山陵使、門下侍郎・衛国公に進んだ。
  • 琦は定策の事について門人親客が話題にすると必ず正色し「これは仁宗の聖徳・神断による天下計、皇太后の内助の力、臣子に何の関わりがあろうか」と述べた。英宗が急病を得て太后が垂簾聴政、帝の挙措が乱れ宦官への恩が薄く両宮に隙が生じた際、琦と歐陽修が簾前で奏し、太后は嗚咽して事情を語り、琦は「これは病のため、病が治れば子として母を容れないはずがない」と述べ、修も委曲を尽くして進言し太后の意が和らいだ。数日後琦が単独で対面し、上が「太后は朕に無恩」と言うと、琦は「舜が大孝と称されるのは、父母不慈でも子が孝を失わなかったから、恐らく陛下の孝が至っていないだけ」と答え、帝は深く感悟した。
  • 病癒えると琦は乗輿を願い禱雨のため素服で出、人情が安まった。太后還政の後、琦は右僕射・魏国公に封ぜられた。夏人が大順を侵した際、歳賜停止・和市断絶論に文彦博が難色を示したが、琦は「諒祚は元昊のような智計を持たぬ狂童、備えを厳しくして詰責すれば必ず服す」と主張、事実諒祚は謝罪の表を上げ帝は「一如所料」と評した。帝が寝疾に際し琦は「早く儲を建て社稷を安んずべき」と説き、頴王を立てる制が発せられた。神宗即位後、司空兼侍中・英宗山陵使を拝した。
  • 琦の執政三世(仁宗・英宗・神宗)を専断と病む向きもあり、御史中丞王陶が琦の文徳殿押班不参を跋扈と劾すると、琦は去ることを願い、帝は陶を退けたが琦は堅く辞位を求め、鎮安武勝軍節度使司徒兼侍中判相州に転じた。帝は涙して「侍中よ去りたいなら制はすでに降された」と述べ興道坊の宅を賜り子の忠彦を秘閣校理に抜擢した。种諤が擅に綏州を取った騒動で判永興軍経略陝西に改任され、辺臣の妄動を諫め二府の召集を求めた。曾公亮らが奏事の際に琦との同議を乞うと、帝が召したが、琦は「前日は政府にいたが今日は藩臣、預聞できない、王陶に跋扈と指弾された臣に今また兵柄を授ければ、また誣告する者があれば臣は赤族する」と述べた。夏人が楊定を誘殺した後、琦は綏州放棄不可を主張し存続させた。

晩年の忠言と死

  • 熙寧元年7月、相州への再任を請い河北地震・河決に判大名府充安撫使として便宜を得た。王安石が用事し常平使者が青苗銭を散布する政に琦が急ぎ諫めると、帝はその疏を宰臣に示し「琦は真忠臣、外にあっても王室を忘れず、朕は初め利民と思ったが害民である、坊郭にまで青苗を強いるのは何事か」と評した。安石は「その欲に従えば坊郭でも何の害があろう」と反駁し翌日は病と称し不出、一時新法は廃されかけたが安石は再び出て前議を堅持、琦は懇奏したが容れられず、四路安撫使を辞して一路のみ領することを願い出、安石はこれを利用し許可させた。
  • 6年、判相州に復した。契丹が代北地の割譲を求めた際、帝が手詔で問うと、琦は近年の朝廷施策(高麗との通交・熙河の建置・西山の植林・団保甲・州城鑿池・都作院・河北37将の設置)がことごとく契丹に猜疑を生む種となっていると7点挙げ、以前青苗銭を論じて讒言を受けた過去を振り返りつつ、新法による民の困窮と衆心の離反を「陛下始謀者大誤」と断じ、契丹への修好継続、造端の中止を主張した。疏は上がったが安石が再入相し所争地700里は契丹に渡り、論者はこれを惜しんだ。
  • 8年、永興軍節度使を換え再任前に薨じた。享年68。薨去の前夜大星が治所に隕ち帝は哀悼し輟朝3日、銀3千両絹3千匹を賜り両河の卒を発して墓を造らせ「両朝顧命定策元勲」と自ら碑に篆した。尚書令諡忠献を贈られ英宗廟庭に配享された。故事では三省長官は尚書令の贈も他官を兼ねるが琦には単贈で足り、追策の際も更に師保を加えなかったのは貴んでのことである。琦は早くから盛名があり識量に優れ、喜怒を色に見せず、周勃の重厚と姚崇の政事に比された。学士・臨辺の頃わずか30歳で天下は「韓公」と称した。嘉祐・治平の間、二度大策を決し社稷を安んじた。危疑の際に力を尽くし成敗を天に任せる覚悟を語り、聞く者は服した。魏都(大名)在任が長く、遼使が過ぎる際は移牒に必ず「韓公在此」と記し、忠彦が遼に使いした際、遼主はその容貌が父に似ることを知り工人に図らせたという。琦は朴忠で下士に貴賤なく礼を尽くし人材抜擢に努めた。相位にあった時、王安石を用いるべきでないと主張し、神宗の問いに「翰林学士なら適任だが輔弼の地は不可」と答えた。魏で生祠が立てられるほど慕われ「富韓」と称された。徽宗の代に定策の勲により魏郡王を追贈され、子の忠彦ら5人が続いた。

子忠彦

  • 忠彦、字は師朴。父の任で将作監簿、進士に及第。琦罷政後に秘書丞、館職を経て校理、開封府判官、三司塩鉄判官、通判永寧軍、戸部判官。琦薨去の服除後、直龍図閣、天章閣待制知瀛州。夏人が主秉常を囚え西方の用兵で米脂等城砦を取ると夏は遼に救援を求め、遼主生辰の慶賀使として忠彦は給事中で遼に赴いた。西事の質問に「これは小役に過ぎない、何を問うことがあろう」と答え、遼王使の王言敷が中国兵の解散を求めた際「西夏を罰することが両朝の好誼に何の関わりがあろう」と反駁した。
  • 使いより戻ると官制が施行され、章惇が門下侍郎として給事中の東省属官の封駁について先禀すべきと奏した際、忠彦は「朝廷の事は執政が行い、封駁すべき事は執政と既に異なる、何を先禀する必要があるか」と論じ従わせた。左僕射王珪が南郊大礼使の際、忠彦は官制の是非を論じ「事の処理が一元化されず期を経ずして廟堂が渝る」と指摘し、事は必ず三省を経ることが定められた。礼部尚書、樞密直学士・知定州、元祐中に戸部尚書に召され、尚書左丞に抜擢された。
  • 弟の嘉彦が王女を娶り同知樞密院事、知院事に進んだ。哲宗親政後、垂簾時代(宣仁后)の事を非難する言者に対し、忠彦は「仁宗の初政の頃も章献太后時代を譏る者があった、仁宗はその情の薄さを憎み戒めた、陛下も仁祖に倣うべき」と述べた。観文殿学士・知真定府、定州に転じた。西方用兵の非を説き取った地を還すべきと述べたが言者に非難され資政殿学士・知大名府に降格。徽宗即位後、吏部尚書、門下侍郎に召され、広仁恩・開言路・去疑似・戒用兵の4事を陳べた。尚書右僕射兼中書侍郎に進み、逋負の蠲除と流人の還住、忠直の名士の登用を進めた。
  • 左僕射兼門下侍郎・儀国公に封ぜられたが、右相曾布と協調できず布に排斥され、観文殿大学士・知大名府に降り、廃后の復位問題で忠彦の罪とされ大中大夫懐州居住に降格、湟州放棄をめぐり崇信軍節度副使済州居住に謫され、湟鄯復置後も磁州団練副使に降格されたが後に大中大夫に復し宣奉大夫致仕。享年72で卒。子の治は徽宗時太僕少卿。

史論――韓琦

  • 琦は三朝に相し二帝を立て、その功は大きい。治平の危疑の際、両宮の嫌隙をものともせず処し社稷を安んじた、その量の大きさが服される所以。欧陽修は琦を「大事に臨み大議を決するに紳を垂れ笏を正し声色を動かさず、天下を泰山の安きに置いた」と称え、社稷の臣と評した。忠彦は世々その美を継ぎ相位に登った、宜なるかな。

曾公亮――経歴

  • 曾公亮、字は明仲。泉州晋江の人。進士甲科に及第し会稽県知事、鏡湖の氾濫を斗門で曹娥江へ排水させ民が利を得た。父の買田の連座で監湖州酒に謫され、国子監直講、諸王府侍講、天章閣侍講・修起居注、天章閣待制に累進、面前で仁宗自ら金紫を賜った。知制誥兼史館修撰、翰林学士・判三班院で三班吏の賕謝横行を規則整備で改め、端明殿学士・知鄭州で盗を境外に追い夜も戸を閉じない治安を実現、使客の失物事件を従者の窃盗と見抜き解決した。
  • 翰林学士・知開封府、給事中参知政事、礼部侍郎を加え枢密使に除せられ、嘉祐6年吏部侍郎同中書門下平章事集賢殿大学士を拝した。首相韓琦が常に諮訪した。仁宗末年、琦が儲君建立を請う際公亮らと共に大議を定めた。密州の田産銀盗取事件で強盗罪相当とされたのを「これは禁物、それを取っても民間の物を盗んだこととは違う」と争い、これに従い比刼禁物法が改められ死刑を避けられるようになった。契丹が界河での漁猟や塩舟往来を黙認させていたのを「萌芽で禁じねば後どうにもならない」と述べ雄州の趙滋を派遣し辺害を止めさせた。
  • 英宗即位で中書侍郎兼礼部尚書を加え戸部尚書。帝の不豫で遼使に会えなかった際、宴に赴かない使者に「賜宴に赴かぬは君命に不虔、主上が病中に自ら臨むのが安穏か」と説得し出席させた。神宗即位で門下侍郎兼吏部尚書、熙寧2年昭文館大学士に進み魯国公に累封、3年9月司空兼侍中・河陽三城節度使・集禧観使を拝し老を避けた。翌年判永興軍を起用。慶州卒叛乱の後、義勇を閲し辺兵を移し租賦を課す動きで人情が騒然としたが、公亮は静を守り次第に事を鎮めた。長安の豪族が営卒不満の流言を流し上元夜に乱を謀るとの噂で人心が恐慌した際、動じず張灯縦観、賓佐と夜を明かして帰り、翌年京師に還った。太保致仕、元豊元年享年80で卒。帝は臨哭し輟朝3日、太師中書令諡宣靖を贈られ英宗廟庭に配享、「兩朝顧命定策亞勲之碑」と御篆された。
  • 公亮は方正厚重で慎み深く規矩を守ったが吝嗇で財を殖やし巨万に及んだ。帝は張安世に比した。王安石を初め薦め、共に輔政してからは帝の意向に順じつつ表面上は距離を置き、密かに子孫のため画策した。子の孝寛を安石の謀に参与させ帝前で意見を異にしないよう振る舞わせ、帝は安石をますます信任した。安石は恩に報い孝寛を樞密に引き上げた。蘇軾が公亮の不作為を責めた際、公亮は「上と介甫は一心同体、これは天命だ」と答え、世は持禄固寵と譏った。子は孝寛、従子は孝広・孝蘊。

曾公亮――子孝寛

  • 孝寛、字は令綽。蔭により知桐城県、選知咸平県。府が誣告により杖罪とした民の雨害訴えを孝寛が自ら田を検分し実を明らかにし賦を蠲除した。祕閣修撰・提点開封府界。保甲法施行時、民が籍を兵と誤解し動揺した際、知府韓維が農閑期実施を上言したが、孝寛は17県に賞金を掲げ扇動者を捕らえさせ維の言を通させなかった。知審官東院、判刑部。熙寧5年樞密都承旨に転じ、文臣による承旨は孝寛が初めて。樞密直学士・簽書樞密院、父の喪を終え端明殿学士・知河陽、鄆州に転じ孟子廟の鄒国公封配と孔子への配享を朝廷に請った。吏部尚書に召され赴任途上で卒、享年66、右光禄大夫を贈られた。

曾公亮――子孝廣

  • 孝広、字は仲錫。元豊末に北外都水丞。元祐中に黄河故道復旧の議を諮問され不可と答え、通判保州。再び都水丞となり、班行使臣による木栰輸送の検査不備を厳格化した。京西転運判官、水部員外郎、黄河の内黄決壊を視察し蘇村・鉅野・澶滑・深瀛への水害を軽減。都水使者となり洛水の氾濫で北岸が浸食されていた問題に旧渡口跡を見出し石を積んで防いだ。提点永興路刑獄、陝西京西転運副使、左司郎中、戸部侍郎に累進し尚書に進んだが銭帛不給で罷免され天章閣待制知杭州、契丹への使いで奉使体を失ったとして奪職されたが後に復し、潭州・成徳軍・太原府を歴任し享年60で卒し正議大夫を贈られた。厳格な治で盗賊を捕らえる際は手を砕くほどであった。

曾公亮――子孝蘊

  • 孝蘊、字は処善。紹聖中、発運司の糴糶事を管幹し、揚州瓜洲・潤州京口・常州犇牛の堰を牐に改めて漕運を便利にした。提挙両浙常平、転運判官、知臨江軍、左司員外郎、起居舎人。京邑の盗賊で徽宗が3日以内に捕らえられねば尹を罪する構えに、孝蘊は「急いて追えば逃げるだけ、少し緩めれば自ら出る」と述べ実際に盗を捕らえた。殿中省の設置に伴い監に擢用されるも張商英と親しいことを言者に指摘され集賢殿修撰・知襄州に転じ、江浙荊淮発運使を歴任。泗州で直河開鑿を論じたところ淮汴不接で不可との議もあったが工事を完成させた。策勲・賞辞を辞退しほどなく河が塞がった。戸部侍郎に召され、疾のため工部に転じ顯謨閣待制知杭州。後に累せられ安遠軍節度副使に貶されたが宣和2年に天章閣待制知歙州に復した。方臘の乱に際し郡内の動揺を抑え要害を分守、来帰する者を保護し出境者を処罰した。杭州に移った時には既に破られていた後で軍士の殺人を抑え、罪ある者は自首すれば束手のまま許した。功で顯謨閣直学士・龍図閣学士に累進し享年65で卒、通議大夫を贈られた。