宋史卷三百九 列傳第六十八 王延徳

出自と昇進

  • 王延徳、開封東明の人。曾祖の芝は濮陽令、祖父の璋は相州録事参軍、父の温は後晋末、契丹の内寇に際し郷豪を率いて境内を防衛し、里人はその徳を称えた。宣祖(太祖の父)が畿甸の兵を掌った頃、温と厚く親交があり、王延徳は幼くして総角の頃から宣祖に愛され左右に置かれた。太宗が京尹(開封尹)であった頃、親校に任じ専ら庖膳を主管し厚く信任された。太平興国初、御厨副使を授かり数月で正使に遷り、太原征伐に従い、まもなく尚食使を加えられ浚儀県寿昌坊の宅一区を賜り、薊州刺史を領し武徳司を兼掌、皇城使に改まり御輦院・左蔵庫を掌った。王延徳が兼領する印は5つに及んだため対面して固辞し左蔵・御厨は罷免された。8年、親王諸宮使を兼充した。王延徳は元来謹慎な人柄で旧恩により外事についてしばしば諮問された。端拱初、本州団練使を領した。
  • 淳化中、昇進の際、王延徳は王繼恩・杜彦鈞と共に使額が既に極まっていたため特に昭宣使を置いてこれに任じた。至道2(996)年、平州防禦使を加領し、真宗即位後、懐州を領し、永熙陵の復土に際し沿路の供頓(供給)を提点した。咸平初、華州知事に出、対面の日に自ら昭宣使を罷免するよう請い容れられた。これは実際に禦侮(防衛)の正秩・俸給が厚遇であったことによる。上の大名行幸に際し東京旧城都巡検使となり、翌年、風痺により辞職を願い本郡に戻り、この冬、卒す、年64。邕州観察使を贈られた。王延徳は至る所で好んで近事を撰集し、御厨を掌った際は『司膳録』を、皇城司を掌った際は『皇城紀事録』を、郊祀に際し行宮使を務めた際は『南郊録』を、内殿の修築に際しては『版築記』を、霊駕に従った際は『永熙皇堂録』を、山陵提轄諸司の際は諸司記を、郡の統治にあたっては『下車奏報録』を著した。以前、史官に太祖・太宗実録の編修が詔されると、多く国初の事について王延徳を訪ねた。また『太宗南宮事迹』3巻を上呈した。子の応昌は荘宅使・端州団練使となった。