宋史卷三百八 列傳第六十七 張旦

陵州の守備

  • 張旦、趙州の人。勇敢で射に優れ、経学により及第、国子博士に至った。淳化中、陵州知事を務めていた頃、李順の乱により連続して城邑が陥落する中、賊党数万が陵州を攻めた。州兵は3百に満たず、旧来城壁も塹濠も設けられていなかったが、張旦は戦具を修め鹿角砦を配し、市民を駆り立てて戦い5千余を殺し器械を万計獲得した。詔書で褒賞され特に水部員外郎に遷り緋魚を賜り、以来名を知られた。数月後、西川招安使の上官正が「雅州は蛮蜑(南方少数民族)に近く鎮撫に人材が必要で、水部員外郎張旦は先に陵州で孤軍で群寇を防ぎ壁塁を保った功で剣外にその威名が伏している」として推薦、諸司使に改めて知州事を命じるべきと提言したが、上は郎中の重責を軽んじたくないとして刑部員外郎・金紫を授け乗り伝えで赴任させ、寇は敢えて犯さなかった。真宗即位後、兵部員外郎に遷り尚食使に改まり徳清軍知事となった。

徳清軍での戦死

  • 景徳中、契丹が入寇し軍壁が陥落した際、張旦は子の利渉と共に衆を率いて奮戦、共に戦死した。上はこれを聞いて驚き悼み、張旦に左衛大将軍・深州団練使を、利渉に崇儀副使を特に贈り、4人の子に官を授けた。上封事する者が朝廷は忠臣を優遇し恩典を加え忠義を勧奨すべきと述べたため、詔で張旦の事跡を天下に告諭した。また虎翼都虞候胡福は戍軍城で力戦し金創を全身に受けながら剣を振るって転戦し矢を尽くし、麾下が皆倒れても独り刃を持ち数十人を殺した。副指揮使尚祚は大鎚を振るい脅骨を折られた者も百余人斬った。衆寡敵せず指揮使張睿・劉福・都頭輔能ら4人と共に戦死し、真宗はその忠勇を嘉歎し使者を遣わして遺骸を訪ねさせたが、胡福の屍のみ得られたため子に厚葬させ、洺州団練使を贈った。尚祚に濱州刺史、張睿に演州刺史、劉福に臨州刺史、輔能らには諸衛率府副率を贈った。また邯鄲令の李晦辭は赴任の途上、道が塞がれ徳清に留まって共に戦い、侍禁夏承皓は兵を率い大名界に至り敵に遭い戦死した。李晦辭に工部員外郎、夏承皓に崇儀使を贈った。この時、河朔で戦死した者として殿直劉超・供備庫使入内高班内品の李知順を六宅副使に、奉職胡度ら3人を内殿崇班に贈り、それぞれの子に官を授け家に金帛を賜った。