辺境の武官として
- 裴濟、字は仲溥、絳州聞喜の人。唐の宰相裴耀卿の8世孫、後に河中に家を移した。若くして晋邸に仕え、同輩に忮悍(凶暴)な者がおり、裴濟がその過失を糾したことで讒言され太康鎮将に降されたが、讒言者はまもなく法に問われた。太宗はその可用を知り、即位に伴い殿直に補し天威軍兵馬監押となった。太原平定・幽薊征伐に従い、監軍として易州に赴任、契丹の攻城を防ぎ落城を防いだ功で西頭供奉官に遷り、太平興国末、江表の賊に対し巡検を命じられ崇儀副使に遷った。召還され崇儀使に遷り威虜軍への戍兵監督として鎮州を通過した夜、賊騎が城門を叩き「官軍が来た」と大声を上げたため州将がこれを信じ開門を促したが、裴濟は「これは必ず偽りだ」と止め、翌朝実際に敵兵が退却したことが分かり、太宗はこれを嘉した。西上閤門使・定州都監に遷り行営鈐轄を加え、まもなく定州知事となった。契丹3万騎が来攻した際、徐河で迎撃して数千級を斬り牛馬鎧仗を多く獲得した。
- 淳化初、周瑩と共に四方館を判じ、まもなく鎮州行営鈐轄となり、李継隆と共に唐河で賊を撃退した際、裴濟は短兵で陣に突入し賊を大破、優詔で称賛された。当初、李継隆は裴濟の剛直さを不快に思っていたが、この戦いで撫慰し相知の遅さを悔いた。四方館使に改まり定州知事に復し、天雄軍鈐轄に転じ客省使に遷り、再び定州知事となった。至道2(996)年、内客省使・鎮州知事に改まった。立春の日、土牛を出して祭る儀式が終わった直後、卒が牛を奪って逃げようとしたので、裴濟はその挙動から反乱の企てがあると察知し捕らえさせた。すると数十人の竊発者が既に街を劫略しかけていたことが分かり、全員を捜索して逮捕し腰斬にした。軍民は粛然とした。裴濟は鎮州・定州にあわせて15年在任し、威績が著しく召還され天雄軍知事となった。咸平初、李継遷が反乱すると裴濟は順州団練使を領し霊州知事兼都部署となった。到着から2年、8鎮の連携と屯田の利益を計画し、民は大いに頼った。この年、清遠軍が陥落し夏人が大挙して糧道を断ち孤軍で援軍を絶たれた裴濟は指を刺した血で奏を書き救援を求めたが、事態は緊迫し兵が至らぬうちに城は陥落、裴濟は死んだ。上はこれを聞き嗟悼し、特に鎮江軍節度使を贈り3子はいずれも進秩された。裴濟は歴代の使職の中でも声望が高く、没した際は夏人も皆惜しんだ。景徳中、妻の永泰郡君景氏が卒すると特に平陽郡夫人を追封され、諸子には喪明けまで俸給を給した。子の徳谷は虞部郎中、徳基は如京使、徳豊は殿中丞に至った。裴濟の兄麗澤・弟麗正はいずれも進士に及第、麗澤は右補闕に、麗正は金部員外郎に至り、麗正の子徳輿は殿中丞となった。