家系と戦功
- 周審玉、開封の人。父の勲は親校として後唐の明宗に仕え戦功を重ね、太平興国中に隰州団練使に至った。周顕徳初、周審玉は蔭により殿直に補せられ世宗の瓦橋関攻略に従い深く親信された。太祖の受禅後、供奉官となり閤門祗候を加え、崇儀・洛苑副使・西京作坊使を歴任した。雍熙中、契丹が塞を犯し潘美が定州に屯した際、周審玉は監軍を務め、先鋒の劉緒が敵に陥落した際、馬を躍らせ突撃してこれを救出し勇敢さを称された。淳化中、貝州知事として在任中、驍勇な戍卒37人が謀り周審玉を殺害し庫兵を奪って反乱を企てたが、虞候の趙咸雍を首謀とするこの陰謀を察知し、転運使王嗣宗と共に兵を率いてその党を捕らえ悉く斬り15級を市に晒した。実は咸雍の父鏻は後晋天福中に契丹を誘い州城を屠らせた過去があり、この時から50年経って子が同じ都市で処刑されたことから旧老は皆奇異に思った。周審玉はこの功により順州刺史を領し、至道初、并州鈐轄に転じた。咸平初、鳳翔府知事として市木を名目に横行する僧を摘発、真相を解明して杖罪に処し京師に護送した。目の病により代わって帰り、その後母の喪に服したが、親友に「歯も髪も衰えてなお官職を辞めずにいるのは母の心を慰めるためだ、今こそその志を果たすべきだ」と述べ、上表して致仕を求め千牛衛大将軍として致仕、3年に卒す、年74。周審玉は晩年『神農本草』を好んで読み方術に留意し、若い頃から軍中で攻守の法に習熟していた。真宗はかつて周審玉を召見し便座で攻戦の器を示させ奏対の最中に病が発し、詔で使者を遣わして自邸で白金を賜り慰問した。子の允廸は虞部員外郎となった。