出自
- 楊覃、字は申錫、漢の太尉楊震の後裔。唐代に京兆尹楊憑(履道坊居住)、僕射楊於陵(新昌坊居住)、刑部尚書楊汝士(靖恭坊居住)があり、当時「三楊」と称され盛門であったが、靖恭坊が最も著名で、汝士の弟の虞卿・漢公・魯士も皆顕名を得た。虞卿は工部侍郎京兆尹に至り、子の堪が太子少師となり、堪の子承休は昭宗朝に兵部員外郎として呉越への使いに派遣された際、楊行密が淮甸を占拠して帰路を絶ったため浙中に留まった。承休の子巖が楊覃の祖父にあたり、鎮海軍節度副使を署せられ春州刺史を領した。巖の子郁は早世し、楊覃は若くして呉越の嗣王銭俶に書を献じ、私に著作佐郎の官を署せられた。銭俶が帰朝すると楊覃も従い禹城尉となった。
蔭給と刑罰への建言
- 太平興国8(983)年、進士に挙げられ徐州観察推官を授かり著作佐郎に改まり戎州知事となった。太常博士に遷り陝西への使者として逋負(滞納税)を蠲免した。楊覃は本名を蟫といったが、この時太宗が改名させた。淳化中、屯田員外郎に転じ寿州同判となり、廵撫使の潘慎修がその政績を上奏し嘉奨の詔を受け、まもなく寿州知事を命じられたが数月後に召還される途上、母の喪に服することとなり、州民が嘆願して留任を求め、転運使がこれを上奏し詔で奪情(喪中の起用)させられた。田重進が永興節度使であった際、楊覃は林特と共に軍府事を判じ緋魚を賜り御書と実給を賜った。田重進が不法な行いをした際、楊覃はしばしば反対して重進の不興を買い、任地の変更を求めたが許されなかった。都官員外郎に転じ、李継遷討伐に際し芻糧の調発を急促させ、鉗手(手枷)を命じたところ特に械頸(首枷)を命じるほど厳しく、衣冠の旧族も免れなかったため人々は怨嗟した。職方員外郎に改まった。
- 咸平初、屯田郎中・三門発運使に遷り、呂蒙正が河南にいた頃その才を推挙し三司磨勘・慿由理欠司に召還された。4年春、旱魃に際し、古の刑罰は三統の月を避け、漢の旧制も獄の判決は冬三月に終えるべきとし、唐太宗も重刑判決の日には膳を減じ楽を撤したことを引き、今も春に大雨が続かず京師の獄が繁多であるから、有司に死罪の判決を雨が降るまで待つよう求め、また今後重刑判決の日には唐の故事に倣うべきと上言した。また時務策5篇(禦戎・用兵・為政・選賢・刑罰)を献じた(詳細は割愛)。翌年、貢挙を権同知し、陝西転運使に出て金紫を賜った。辺臣が李継遷の死を報じ討伐を深く進言したが、楊覃は「敗死者への攻撃は非礼であり、その子がまだ健在であるから備えるべき」として辺臣に守備を厳にするよう詔を求め、離反した衆が離散するのを待つべきと建議した。西辺の屯兵の調役が甚だ繁多だった当時、副使の朱台符が改革を志向していたのに対し楊覃は旧制を守ろうとし対立した。寇凖が青州知事であった頃朱台符は通判だった因縁があり、寇凖が宰相になると楊覃は朱台符が旧縁を頼んで上に密告したと考え、不協和音により隨州知事に出、王超が漢東の節度使であったため楊覃は唐州に転じた。景徳2(1005)年、召還され、河北兵乱の後、澶魏濱棣徳博州を巡撫振給する任を受けた。潭州知事に出、王師が宜州の賊を討伐する際、軍需の多くが長沙から出たため曹利用がこれを上奏、刑部郎中を加えられた。大中祥符2(1009)年、馮亮に代わって淮南江浙荊湖制置発運使を務め、月余で太常少卿直昭文館・広州知事に改まった。楊覃は吏事に勤め至る所で幹済と称され、南海の蕃舶の利について前後の牧守が謗議を招くことが多かったが、楊覃は廉潔をもって知られ遠人が便宜を得た。右諫議大夫を加えられ、4年に卒す、年54。長子の奉礼郎文友を乗り伝えで喪に赴かせ、詔で本州に護柩させ官給とし、次子の敏を揚州司士参軍とした。楊覃の従弟蛻・従子侃はいずれも進士に登第、蛻は司封員外郎に至り、侃は後に大雅と改名し別に伝あり。