宋史卷三百七 列傳第六十六 喬維岳

出自と泉州通判

  • 喬維岳、字は伯周、陳州南頓の人。三伝(『春秋』三伝)を治め、後周顕徳初に及第し太湖主簿を授かった。顕徳4年、平輿令に遷り、開宝中、右拾遺の劉稹がその才を薦め太子中舎・高郵軍知事に抜擢、揚州通判となった。常州・金陵を平定した後、昇州に転じ殿中丞に改まり、太平興国初、襄州に転じ、母の喪に服した。3年、陳洪進が疆土を朝廷に納め、その子文顕を泉州留後としたことに伴い、朝廷は能吏を求め喬維岳を通判として起用した。仙遊・莆田県で盗賊が蜂起し10余万に及び、城中の兵はわずか3千で危急となった。監軍の何承矩・王文寶は民を屠り府庫を焼いて逃げようとしたが、喬維岳は強く反対し、朝廷の意図は民に恩沢を及ぼすことにあり、盗賊とはいえ民を屠るのは詔意に反すると論じ、承矩らを思いとどまらせた。まもなく転運使楊克讓が福州兵を率いて賊を破り包囲を解いた。詔で褒賞された。

運河改修と獄事の慎重さ

  • 淮南転運副使として朝に帰り右補闕に遷った。淮河の西流三十里の山陽湾は水勢が激しく舟の転覆が多発したため、喬維岳は末口から淮陰磨盤口までの旧沙河40里を開削するよう規画し、さらに建安から淮の岸まで計5堰を築いた。運舟は途中で上下を10回も経て積み荷を降ろして通過するため、その隙に糧を盗む不正が横行していた。喬維岳は西河第三堰に二つの斗門(水門)を設け、間隔50余歩に厦屋を覆い懸門を設けて潮位が平らになった時に水を通す仕組みを創始し、横橋・土石で基礎を固めることでこの弊害を全て除いた。以後、運舟の往来は滞りなくなった。
  • 泗州を巡視した際、法掾(司法官)の誤判で囚人が死刑になりかけたことを察知し、その掾が「母が80余歳で自分が罪を受ければ母が生きられない」と泣訴すると、喬維岳は憐れみ、「後日、朝廷の制で問われれば『転運使がこの罪の処理を命じた』と言え」と答えた。実際にその通りになり法掾は罪を免れたが、喬維岳自身は贖金120斤を科され、使職を罷免され楚州知事権知に任じられた。戸部員外郎に遷り、代わって帰り度支判官となり本曹郎中に転じ両浙転運使に出、懐州・滄州知事を歴任した。京朝官の考課で召還され、真宗が寿王として京尹の府僚を精選した際、開封府推官に留任した。淮南での断獄が不公平だったとの言があったが、事情を知る左右がこれを弁明し、太宗は特に賞異した。皇太子の輔導職を建てるに際し左諭徳を兼ね太常少卿に遷り、府務は繁多であったが喬維岳は迅速適切に処理し、王陟が司録を務めた。真宗もその明幹を称え、即位後に喬維岳・畢士安に開封府知事を権知させ給事中・審官院知事とした。喬維岳は肥満で年を取り拝跪や趨走が困難となり、外任の小州を求め、帝はその引き際を評価し海州刺史とした。咸平初、蘇州知事となったが持病の風疾があり、呉中は魚蟹の食が多かったため寿州に転じさせ太医に療養させた。4年に卒す、年76、兵部侍郎を贈られた。大中祥符中、孫世昌にその功を献じ共に同学究出身を賜った。喬維岳は吏事に明るく治劇の才があり、懐州にあって王欽若が初めて進士に挙げられた頃からその貴顕を見抜き、陳彭年をも厚遇し、刺史となる度に彼らを通判に推薦し続けた。

附伝 王陟

  • 王陟は潞州上党の人。淳化3(992)年、進士に挙げられ嵐州団練推官に補し、内侍の羅懐嗣が輸送の功を薦め晋州観察推官に遷った。至道初、度支判官の李択言が薦め著作佐郎・大名府同判・留知開封府司録参軍となった。前任司録の閻仲卿は殿上での奏事を好み好かれなかったが、真宗(当時尹京)は王陟の謹慎さを重んじた。即位後、緋魚袋を賜り著作郎・開封府推官に改まり、陝西に赴き転運使と共に霊武への輸送を督した。咸平初、太常博士に遷り河東転運使に出て金紫を賜った。趙保吉(李継遷)が帰順した際、内侍張崇貴と共に辺事を裁定し、経界を正した。また崇貴の使として夏州に赴き誥命を賜った。帰任後、温仲舒が貢挙を知る際、刑部員外郎董亀正と共に考試と巻首の封印を行い、工部員外郎に改まり棣州知事となった。5年、三司塩鉄勾院を判じるため召還された。当初、上は京府時代の旧縁で王陟を重用しようとしたが、貢部の挙子に賄賂を受けて成名させた者があるとの言があり、恩寵を頼んで顕要な地位に望むとされ登用は見送られた。6年、卒す。上は深く憐れみ、子の若拙を奉礼郎に、若谷を太廟斎郎とした。後に王陟の妻が卒すると子に喪に服す間の俸禄を給した。若拙は国子博士に至った。