宋史卷三百六 列傳第六十五 張去華

父 張誼

  • 張去華、字は信臣、開封襄邑の人。父の誼、字は希賈は学を好み産業を事とせず、孤児として父の兄弟に耕作を督されたが書を好み、洛陽龍門書院に学び宗人と交わり名を知られた。後唐の長興中、和凝の貢挙で進士に及第し耀州団練推官に補し、後晋天福初、和凝が翰林学士となり門を閉ざしたことに対し「政務のために賓客を接すべし」と諫言し評価された。桑維翰への推薦により左拾遺に抜擢、後晋の礼制刷新や契丹への信義を説く上疏を行い、右補闕・集賢殿脩撰・礼部員外郎・侍御史・倉部・知制誥・礼部郎中を歴任、後漢乾祐初、中書舎人となった。蘇逢吉・楊邠・王章らが権勢を得たが張誼は屈せず疎まれ、呉越宣諭使として派遣された。呉越の民は朝使を迎える際に儀仗を誇示し、張誼と馬承翰はこれを笑い酒に酔って発言したため銭俶が恥辱を訴え、均州司戸・房州司馬に貶されて数年後に卒した。

出仕から太祖朝

  • 張去華は幼少より学に励み、太廟斎郎を蔭補された。後周世宗の淮南平定の際、18歳で「兵戦已に息まざれば民事も治まらず」と嘆じ「南征賦」「治民論」を献じ、御史台主簿に任じたが、三院の議事に加われぬことを不満とし官を棄てて鄭州に隠棲、3年門を閉ざした。建隆初、文を携えて京師に赴き李昉に称賛され、翌年進士甲科に及第、秘書郎直史館に任じたが、任期満了で昇進しなかったため上章し、制誥の張澹・盧多遜、殿中侍御史の蘇頌の学問が浅いと訴えた。太祖はこれを試験に付し、張澹らは不合格で降格され、張去華は右補闕に抜擢された。ただ躁進と批判され16年間昇進しなかった。父の冤罪を訴えると太祖は動じ、荊湖平定後は道州通判となり、桂管の要衝性を上言し嘉奨された。磁州・乾州知事、益州通判、起居舍人、鳳翔府知事を歴任、太祖の太原親征に随行し監隨駕左藏庫、京東転運使に任じ左司員外郎・礼部郎中を経て太平興国7(982)年江南転運使となった。

太宗朝以降と晩節

  • 雍熙中、王師の幽州討伐に際し、宋州の輸送を督し拒馬河まで達し、河北転運事を掌った。3年、陝州への転任前に『大政要録』30篇を著して献じ、褒美を受けたが、許王の京尹就任に伴い開封府判官に任じられ留任、殿中侍御史の陳載が推官となり共に金紫を賜った。左諫議大夫に転じたが、廬州の尼道安が弟の妻を誣告した事件で府が処理を怠り、道安が登聞鼓を打ち、張去華が徐鉉からの依頼により処理を怠ったと訴えられ、太宗が怒って前任時のことで安州司馬に貶された。1年余りで召還され将作少監・興元府知事に任じたが未着任のうちに晋州に改まり、秘書少監・許州知事に遷った。
  • 真宗の即位後、左諫議大夫に復し給事中・杭州知事に遷った。両浙で銭氏の代からの丁銭(人頭税)を廃するよう建議したが有司が経費を理由に許さなかった。咸平2(999)年、蘇州に転じ、まもなく病で分司西京を求めた。洛陽で園廬を営み「中隠亭」を作りその志を表した。景徳元(1004)年、工部侍郎に改まり致仕、3年に卒す、年69。張去華は容姿佳く談論に長け気節を尊んだ。営道にいた頃、父の同門生であった何氏の二子を教育し受代の際に京師へ携えて仕官させた。「元元論」を献じ農を務めることの重要性を説き、真宗はこれを称賛して縑素に写させ龍図閣に掲げさせた。だが自ら奔放で世評に貶され顕用されなかった。文集15巻あり。子の師古は国子博士、師錫は殿中丞、師顔は国子博士に至った。

子 師徳

  • 師徳、字は尚賢、張去華の十子のうち最も器量があった。張去華は当初その任官を辞退させようとしたが、後に「この子は必ず我が志を継ぐ」と言った。真宗の汾陰祭祀に際し、河南府知事薛映がその学行を薦め、また「汾陰大礼頌」を献じてその歳に進士に及第、当時最も名誉とされた。将作監丞・耀州通判、秘書省著作郎・集賢校理を経て三司都理欠を判じた。逋負(未払いの官物)の連座による繋獄について、独身・貧病者は蠲免すべしと奏し容れられた。殿中で奏事した際、条対の詳細さを評価され、帝は「藩邸にいた頃から卿の父の名を知っていたが、今は卿の才も知った」と述べた。以後、契丹・高麗への使者には多く師徳が主とされた。天禧初、淮南安撫となり風眩を病んで司農寺判官に改まり、右正言知制誥に抜擢し尚書刑部を判じた。潁州知事に出、刑部員外郎に遷り大理寺を判じ羣牧使・景霊宮判官となり、吏部郎中に遷り、病により鄧州知事、汝州に移り左諫議大夫を拝命したが知制誥は罷免された。師徳は孝謹で家法を保ち権貴と交わらず、多病でありながら西掖(中書省)で9年も昇進しなかったまま卒した。文集10巻あり。子の景憲は太中大夫となった。