出自と初期の善政
- 戚綸、字は仲言、応天楚邱の人。父の同文、字は文約は自ら伝あり。戚綸は若くして兄維と共に文行で知られ、古学に篤く名教を語ることを好んだ。太平興国8(983)年、進士に挙げられ沂水主簿に補し、戸籍調査で租税を逃れる者を多く摘発した。大和県知事に転じたが、父同文が随州で卒すると徒歩で千里余を奔喪し、詔で起復され大理評事を加えられた。江外の民は険悪で訴訟が多かったため「諭民詩」50篇を作り時俗の事に因んで教化し、老幼まで伝誦した。毎年、獄囚と期限を約して帰省させ、皆期限通りに戻った。光禄丞に遷るが陳州での獄事失当により免官、『理道評』12篇を著し、銭若水・王禹偁に深く評価された。
- のち大理評事・永嘉県知事に再任、陂塘の利を浚治して水旱に備えた。光禄寺丞に復し、転運使が政績を上奏して褒賞を得た。真宗即位後、著作佐郎・泰州通判に転じようとした際、秘書監楊徽之がその文学・純謹を薦め、秘閣校理に任じ司天台の職官を考校し州県職田の条制を定める詔を受けた。館閣官の旧文献上に対し戚綸の著述が評価され特に太常丞に改まり、鼓司登聞院を判じた。内府の緡帛で辺境の糧を買う任を受け、乗り伝えで均市を行った。景徳元(1004)年、三司開拆を判じ緋魚を賜り塩鉄判官に改まり、辺事についての上疏が高く評価され、10月に右正言・龍図閣待制・金紫を賜った。この職の新設時に杜鎬と共に任じられ人々に栄誉とされた。
十事の建言と諸政
- 戚綸は久しく州県に留意し、便殿での対面ではしばしば長時間に及んだ。ある上奏で、出納献替は王臣の任、章疏諫言は諫者の職であり、自らしばしば召対に浴していると述べ、十事を摘要して献じた。王畿関輔、五等封建、制科の復活、国学の崇め、曠土の開墾、貢挙の整備、大臣への任用、平糴の設置、廂軍増員・禁兵削減、六典令式の整備の十項である。景徳2(1005)年、趙安仁・晁逈・陳充・朱巽と共に貢挙を知り、取士の法についての建言が多く採用された。『冊府元亀』の編纂に参与、諸司の事務を統括する官が置かれ、戚綸と劉承珪が共にこれを領した。鴻臚寺を判じ、群臣の詔葬に統一制度がなかったのを晁逈・朱巽・劉承珪と共に整えた。
- 三公九卿の任について唐末以来の煩雑さを整理すべきと論じ、右司諫・兵部員外郎に進んだ。匿名の上封や非次の升殿奏事を禁じる詔が出た際、忠讜の言路は開いておくべきと諫めた。大中祥符元(1008)年、吏部選事を掌った。真宗が霊文(天書)を受けた際、上疏して祥瑞の実行と共に、俗説による惑わしを警戒すべきと諫めた。この冬、泰山を封じた際、発運事を計度し、戸部郎中に遷り直昭文館待制のまま留まり、東封祥瑞封禅記の編修に加わり、集賢殿脩撰を兼ね、釈奠儀の頒布、常平倉の設置を建議し容れられた。种放を龍図閣で餞別した宴の序を作り、史才があると評された。3年、樞密直学士に抜擢され、汾陰祭祀に際し発運の職を再び兼ね、まもなく杭州知事に出、左司郎中を加えられた。江潮の被害に対し埽岸を柱石制に改めたが批判もあった。
晩年と評価
- 発運の職を胡則が代行していた際、胡則は放縦で節度がなく李浦と厚く結び、戚綸はこれを嫌った。通判の呉耀卿が李浦則の党であり、戚綸の動静を密告し、当時の権勢家がこれを利用して戚綸の過失を捃摭した。揚州知事に転出したが揚州も李浦則の巡内であったため求めて僻地の州に転じ、徐州知事に転じ、8年に劉綜と共に学士職を罷免され左諫議大夫を授けられた。青州に代わり戻り、飢饉の際は公廩を発して救済した。鄆州に転じたところ、王遵誨が勧農副使であった。西辺に赴任していた頃、永興に家を寓居させていたが閨門の秩序が乱れ、知事寇凖がこれを正したことで戚綸は寇凖と冗談を交わし戯言に及んだ。王遵誨は激怒し戚綸が謗訕したと奏し、岳州団練副使に左遷され、和州に移り、天禧4(1020)年、保静軍副使に改まった。この冬、病を理由に帰郷を願い太常少卿分司南京に改まり、5年に卒す、年68。
- 戚綸は古学に篤く名理を語ることを好み、民政をよく論じたが少し迂闊であった。兄維との友愛は厚く、維が卒すると数日食を絶って哀慟した。信義に篤く、士子の来訪には志向を尋ね誘掖した。大中祥符中、礼文の整備に参与し陳彭年と共に職務にあたり、恩寵は厚かったが、後年は権貴に排斥され振るわなかった。子弟の教育に篤く、清貴の身になっても質素を保ち、没する時は家に余財がなかった。張知白が知府の際、俸を割いて葬儀を助けた。遺品の中から遺戒一篇が見つかり、大抵は学問を勧める内容であった。文集20巻、論思集10巻(機務利害・辺境均田の策)あり。天聖中、子の舜賓がこれを献じ左諫議大夫を贈られた。舜賓は太子中舎の官に就いた。