宋史卷三百六 列傳第六十五 朱台符

出自と初期活動

  • 朱台符、字は拱正、眉州眉山の人。父の賦は抜萃に挙げられ度支判官を歴任し殿中丞で卒した。朱台符は幼くして聡頴、10歳で文をつくり「黄山楼記」を作って士友に称された。長じてからも詞賦に優れ、太宗の廷試では速く成す者を重んじたため、同輩と時を計って一賦を成した。淳化3(992)年、進士甲科に及第、将作監丞・青州通判となり直史館・緋魚を賜り、秘書丞に遷り浚儀県知事となった。咸平元(998)年、楊礪・李若拙・梁顥と共に貢挙を知り、京府旧僚として太常博士に抜擢され京西転運副使に出た。

対契丹政策の建言

  • 当時北辺が動揺していたため、朱台符は上言した。蛮夷が中国を乱すことは古来の常であり、周辺との対応は振旅征伐か和親修好かの二策であるが、秦の長城築城や漢の大漠征伐は一時の志を遂げて後世の笑いを買った例であり、鑑とすべきと論じた。太祖が中原離乱の後、休息の道を取り20年争いを絶ったこと、太宗が晋を平定した後、幽薊の地を取ろうとしたが果たせず戦禍が続いたことを述べ、今、祥禫(真宗の即位に伴う服喪)が終わろうとする折に、契丹の罪を赦し、才略ある文武の士を使者として旧盟を求めるべきと提言。関市の利を許し太祖の故事に倣えば、両国は和し西の李継遷にも専念できると論じた。朱台符自らこの使いを願い出て、世論もこれを評価した。咸平2(999)年春、旱魃に際し重農・積穀・任将選兵・慎択守令・軽徭節用・均賦・慎刑・大臣への責任委任などを説く疏を上げ、優詔を賜った。
  • 塩鉄判官に入り戸部勾院を判じ工部員外郎を拝命、度支判官に転じた。景徳初、鄭文宝が陝西転運使のとき事を張皇したとの言があり、代わって朱台符が赴任、金紫を賜った。朱台符は俊爽で謀を好んだが刻碎(厳しすぎる)と批判され、同僚の楊覃と職務観が相違して衝突し、御史の視察を受けた。9月、朱台符は郢州知事に、楊覃は徐州知事に転出。3年後召還されるが、また執政に嫌われ洪州知事に出され、舟中で卒した、年42。子の公佐に同学究出身を賜り賻銭20万を給した。朱台符は学を好み文才に優れ後進を引き立て、文集30巻あり。公佐と弟の昌符は大中祥符中に進士に及第、共に第5位に入った。昌符登科の際、宰相が「昌符は台符の弟」と述べると、帝は台符の文学と著述を惜しみ嘆いた。公佐が卒すると次子の寿隆を将作監主簿に試し、昌符は屯田員外郎となった。