出自と学才
- 孫何、字は漢公、蔡州汝陽の人。祖父の鎰は唐末、秦宗権が州を拠点として賓佐に招いたが、鎰は仮病で応じず郷里に帰り講学を業とした。父の庸、字は鼎臣、後周の顕徳中に「賛聖策」9篇を献じ、唐の貞観の政治を引き魏徴になぞらえた。世宗はその言を奇として中書に試させ開封兵曹掾に補し、建隆初に河南簿となった。太平興国6(981)年、鴻臚少卿の劉章がその才を薦め左賛善大夫に改まり、殿中丞・龍州知事を歴任して卒した。
- 孫何は10歳で音韻を識り、15歳で文を作り、篤学好古で文は必ず経義に基づいた。貢挙の間で名声高く、丁謂と親交があり「孫丁」と並称され、王禹偁にも重んじられた。「両晋名臣賛」「宋詩」20篇、『春秋』の意を尊ぶ儒教の議論などを著し、時に名を知られた。淳化3(992)年、進士に挙げられ開封府・礼部でともに首席で推薦され甲科に及第、将作監丞・陳州通判となり、直史館・緋を賜り、秘書丞に遷り京西転運副使を歴任し、右正言から右司諫に改まった。
五議・六卿論
- 真宗の初め、孫何は五つの議を献じた。一、方略ある儒臣に統兵させること。二、世禄の家の子弟に太学で学ばせ、寒門の士は州郡の推薦によらせ自薦を禁ずること。三、制挙を復すること。四、郷飲酒礼を行うこと。五、能力によって官を授け、恩慶による例遷を行わぬこと。真宗はこれを善しとした。
- 咸平2(999)年、入閤の儀の際、孫何が待制を務める順番に当たり、疏を献じて六卿(吏部・兵部・戸部・刑部・礼部・工部)の職分がそれぞれ整ってこそ天下の事が備わるとし、唐の盛時にも別に利権を掌る使職を置かなかったのに、玄宗の代に租調が不足して蕭景・楊釗が地官判度支となり、宇文融が租調地税使となって利の道を開いたことが禍の端緒となり、粛宗・代宗の代には有司の職が廃れて言利の臣が跋扈したと論じた。今、国家は三代にわたり太平を築いてきたのだから、三部使の職掌を六卿に戻し、戸部尚書一人に塩鉄使事を専掌させ、金部郎中・員外郎に判じさせる等の制度改革を提案した。
- この冬、大名への行幸に従い、辺事についての諮問に応じて疏を上げた。将帥が城壁を固めて出撃せず、民を顧みない弊、辺境の奏報が実情を隠す弊、隣境が救援し合わない弊、糧秣輸送が遅れる弊の四つを指摘し、それぞれの対策(文武の謀臣の活用、辺防の奏を陛見で問うこと、軍令による督励、軽装での急送)を提言した。また敵騎が引き上げても油断せず、東北の無備な城の防備を固めるべきこと、津渡の要害に禁兵を配置すべきことを述べた。真宗はこれを嘉した。
- 傅潜が逗留して功を挙げなかった際、孫何は潜の斬首を求める上疏を行った。戸部判官の権知を経て京東転運副使に出、州県の守宰の選抜、三司の冗員削減、法官の厳選、俸給増加などを求める疏を献じた。まもなく両浙転運使に転じ、起居舍人を加えられ、景徳初、代わって帰り太常礼院を判じた。晁逈・陳堯咨と共に知制誥に任じ金紫を賜り三班院を掌った。病を押して職務にあたっていたある日、上奏中に奏牘を落とし、拾おうとして笏も落としたため有司から失儀と弾劾されたが、詔で許された。孫何は恥じて上章し少卿監に改め分司西京として養病を願ったが許されず、医者を遣わされた。医者が灸治を勧めても孫何は「死生は命なり」と応じず、この冬に卒した、年44。真宗は澶淵の陣中でこれを聞き哀惜し、子の言を大理評事に任じた。孫何は名教を重んじ後進を引き立てたが、性格は偏狭で他を容れず、両浙にあっては専ら厳酷を旨とし州郡が病んだという。『駮史通』十余篇を著し、文集40巻あり。
弟 孫僅
- 孫僅、字は鄰幾。若くして学に勤め兄何と共に当時名を知られた。咸平元(998)年、進士甲科に及第、兄弟連続の首席合格として世に栄誉とされた。舒州団練推官に補せられ、賢良方正直言極諫科の推挙で趙安仁に策を第四等と評され光禄寺丞・直集賢院に抜擢、浚儀県知事となった。景徳初、太子中允・開封府推官に任じ緋を賜り、北辺との盟約に際し国母の生辰使を務めた。開封府判官に改まり右正言知制誥に遷り金紫を賜り、審官院を同知した。
- 永興の孫全照が交代を求めた際、真宗は循良の人材を求めて辺肅と孫僅の二名を宰相に示し、孫僅がかつて京府の副官で民政に通じていたため永興軍府知事に任じた。孫僅は篤実温厚な人柄で政は寛容、詔で戒められることもあった。大中祥符元(1008)年、比部員外郎を加えられ、代わって帰り審刑院を知り、右諫議大夫・集賢院学士・権知開封府に至り左諫議大夫に改まり河中府知事に出、朝に帰って再び審刑院を領し、久しくして給事中に進んだ。天禧元(1017)年正月に卒す、年49。子の大理評事和を衛尉寺丞に任じた。孫僅は端正で謙虚、儒学に篤く、士大夫はその履修を推した。文集50巻あり。弟の侑もまた進士に及第し殿中丞に至った。