出自と初任
- 謝泌、字は宗源、歙州歙県の人。自ら東晋の太傅謝安の27世孫と称した。若くして学を好み志操があり、賈黄中が宣州の知事のとき一目でその才を認めた。太平興国5(980)年CE、進士に及第し大理評事・清川県知県となり、彰明県に転じ著作佐郎に遷った。
言路をめぐる直言
- 端拱初、殿中丞となり、著した文十篇・『古今類要』30巻を献上し、中書に召試されて直史館・緋を賜った。当時、言事者が多く、閤門は「越権の訴えでなければ受け付けるな」との詔を出したため言路が塞がりかけた。謝泌は上疏してこれに反対し、辺境に事があり民政も治まらぬ時こそ狂夫の言も聖人は取捨選択して聴くべきで、初めから拒めば四方の耳目を塞ぐことになると論じた。
- また国家の図書が乱れていることを述べ、唐の景龍年間に経史子集の四庫を分けて薛稷・沈佺期・武平一・馬懐素に分掌させた故事に倣うよう求め、これが容れられて謝泌は集庫を掌り左正言に改まり、嶺南採訪使となった。
- 淳化2(991)年、旱魃に際して時政の得失を上言。当時、王禹偁が「百官が宰相に謁見する際は必ず朝議後に政事堂で、樞密使も同席させよ」と請い、私的な陳情を防ごうとしたが、謝泌はこれに反対し、大臣を私心で疑うようなものだと主張。張説が姚元崇(姚崇)に語った「外は疎にして接し、内は謹んで君に事える、これこそ大臣の体」との言を引き、天下は広く政務も繁多なので、皇帝は輔臣を通じて外の事情を知るべきであり、百官が都堂で接見を待つようでは休む暇もなくなると論じた。太宗はこの奏を見て前の詔を撤回し、謝泌の上表を史館に送った。
- 修正殿の彩色が過度になった際も上疏して丹堊への差し戻しを命じさせ、その忠誠を賞されて左司諫・金紫・銭30万を賜った。ある日、便殿での対面で太宗が謝泌の剛直な発言ぶりを称えると、謝泌は唐末の孟昌図が朝に諫めて夕に罷免された例を引き、前代の乱を戒めとすべきと述べ、太宗を深く動かした。
- 群臣が殿上で言事する際に奏が容易に通ってしまい巧言妄言も混ざる弊があったため、謝泌は政事は中書へ、機事は樞密院へ、金穀は三司へ送り、上奏を経てから施行すべきと請い、容れられた。三司塩鉄勾院の判官となり、国学挙人の黜落者が多く出て騒動になった際は変装して脱出し、対面を求めて自陳した。太宗が官職を問うと、その供の厳粛さを聞き、御史台の雑事を兼ねる者に授けるべしとして、虞部員外郎兼侍御史知雑事に任じた。上元の観灯に特に召され、以後これが恒例となった。
- 金部員外郎に転じ塩鉄副使を兼ねたが、当時の使であった魏羽が謝泌の外舅(妻の父)であったため親族回避により度支副使に改めた。郊祀の際、軍士への賞給の額を上奏すると、太宗が「朕が金帛を惜しむのは専ら賞賜に備えるためだ」と述べたため、謝泌は唐の徳宗の朱泚の乱、後唐荘宗の馬射の禍がいずれも賞が薄かったことに起因すると述べ、今上が身を慎み賞賜を厚くしていることは歴代に稀な美徳であると称えた。王沔と共に京朝官の磨勘(人事考課)にあたった。
辺境政策への建言
- 真宗の初め、辺境の異民族がしばしば侵寇したため、虢州知事となっていた謝泌が上疏し、太平を望む聖心を推し量り、雍熙末に趙普が唐の姚崇の「太平十事」を上表したが実行に至らなかった経緯を述べ、今こそ実行すべきと論じた。開元の治や漢高祖の故事を引き、辺境と和すことは国を軽んじることではないとし、財を与えて懐柔する策を勧め、また古の哲王が民の言を聴いた例、輔弼には老成の人を用いるべきことなどを説いた。
- 咸平2(999)年、同州知事に転じ、代わって鼓司登聞院の知事となる。5年、陳恕と共に貢挙を知り、また通進銀台司を知り刑部を加えられた。両浙転運使に出た際、告老の文武官に半俸を与える新制について、70歳以上で退官を望む者や病による退任・贓罪を犯した者にも便宜を図るよう請い、詔許された。福州に転出し、代わって帰った後は民がその恩愛を慕い、石に刻んで去思を記した。兵部郎中に転じ、審官院を再び知り、昭文館に直し、荊南府を知り襄州に改め、太常少卿・右諫議大夫・判吏部銓を歴任した。大中祥符5(1012)年に卒す、年63。謝泌は性格が端直で、方外の学(道教)を好み、病篤くなると道士の服を着て端座して死んだ。帝はこれを聞いて驚嘆し、使者を遣わして弔問し、恤典を賜った。子の衍は太常寺奉礼郎、衒は将作監主簿、衍は太子中舎に任じられた。