劉筠
- 字は子儀。大名の人。進士に挙げられ舘陶縣尉となり、還任した際に知制誥の詔を受けた楊億が選人を試して太清樓の書を較べさせると筠が第一に選ばれ、大理評事として秘閣校理となった。真宗が北廵した際、大名府觀察判官事知として召され、辺鄙で兵が罷んで以来、国家に閑暇が生じ帝は篇籍(書物)の編纂に意を向け始め諸儒を集め文章を考論し一代の典としようとした際、筠は図経・冊府元龜の編纂に参与し精敏と称された。真宗が汾睢を祀ろうとした際、しばしば嘉奬を得、筠と監察御史の陳從易を崇和殿の賦歌詩に召し、帝はしばしば善しと称えた。車駕が西廵した際にも筠に士訓(士人への訓示)を纂させた。
- この頃、四方から符瑞(吉兆)が献じられ天子は礼文の事を盛んに興していた。筠は数々賦頌を上げ冊府元龜が完成すると左正言・直史館に進み起居注を修めた。かつて病に罹り予告(休暇届)を出すたびに蒲の如く延期を重ね二百日に累積したが、帝はその都度俸給を継続するよう詔した。左司諫・知制誥に遷り史館修撰を加え鄧州知州に出、陳州に徙り帰任して在京刑獄を糾察、貢舉知を経て尚書兵部員外郎に遷り再び鄧州を請うたが未行のまま翰林學士に進んだ。
- 初め、筠は丁謂と李廸の罷相の制を起草したが、まもなく謂が留任することになり別に制を草すよう命じたが筠は詔を奉ぜず、代わりに晏殊が召された。筠が院を出て樞密院南門で殊に出会った際、殊は側を向いて通り過ぎ揖もしなかった、これは内心恥じる所があったためであろう。帝が久しく病を患い謂が次第に権勢を専横する中、筠は「姦人が事を専らにする、どうして一日でもこの位にいられようか」と述べ、外任を請い右諫議大夫・廬州知州となった。
- 仁宗即位で給事中に遷り再び翰林學士に召され、一ヶ月余りで御史中丞を拝命した。これに先立ち三院御史が言事する際は必ず先に中丞に白す(報告する)ことになっていたが、筠は臺中に牓を掲げ御史が自ら言事する際は丞・雜(御史丞・知雜)に白す必要はないと知らせた。天聖二年の貢舉を主管、しばしば病を告げ尚書禮部侍郎・樞密直學士に進み頴州知州として召還され再び貢舉を知り、翰林學士承旨・龍圖閣直學士を兼ね進み国史を同修、尚書都省を判官した。南郊の祭祀で禮儀使を務め、宿齋の日は大廟での朝饗を罷めるよう請い、玉清昭應宮の祭礼が成れば鑾駕を備えて恭謝することにした。
- 筠は元来廬江を愛しており城中に室を築き閣を作って前後に賜った書を蔵し、帝は「真宗聖文秘奉之閣」と飛白書で額を書いた。再び廬江知州となり塚墓を築き自ら棺の銘を刻んだ。病になると書閣に移り卒した。筠は景德以来、文翰の選(文章の任にある者)の首座にあり、文辞は対偶に優れ特に詩に長けた。初め楊億に識拔(見出され)され後にこれと斉名し当時「楊劉」と称された。三度禁林(翰林院)に入り三度貢部を典じ、策論による昇降で天下の士を選ぶ制度は筠から始まった。性は苟合(安易に妥協すること)せず事に臨んで明達であり、その治は簡厳を尚んだが、晩年には陽翟の同姓の富人のために恩澤を奏求し清議に軽んじられた。著書『冊府応言』『榮遇禁林』『肥川中司』『汝隂三人』『玉堂』を合わせて凡七集に及ぶ。一子は早卒し田廬は官に没収された。包拯は少年の頃、筠に高く評価され後に顕位に至った際、筠の族子を推挙して後継とし、また没収された田廬の返還を請うたという。