宋史卷三百五 列傳第六十四 楊億

楊億

  • 字は大年。建州浦城の人。祖父の文逸は南唐の玉山令であった。億が生まれる直前、文逸は懐玉山人と称する道士が訪ねてくる夢を見た。まもなく億が生まれた際、毛が体を覆い長さ尺余りに及んだが月を経て抜け落ち、すぐに言葉を発するようになった。母は小経(初学の経書)を口授しただけですぐに暗誦し、七歳で文を作り客と談論する際は老成した風格があった。
  • 雍熙初、年十一で太宗がその名を聞き、江南轉運使の張去華に詞藝を試させて京師に送らせた。連続三日召試を受け、詩賦五篇を下筆即座に完成させた。太宗は深く賞し内侍都知の王仁睿に中書へ送らせ、さらに一篇賦させた。宰相はその俊異に驚き章を削り翌日に賀を制した。詔の中で「汝はまだ髫齓(幼年)でありながら師の教えを受けずして精爽神助(天才的な才能)を持ち、文字を生まれつき知り一日千里の勢いだ、予はお前に望みをかけている」と述べ、秘書省正字に任じ特に袍笏を賜った。まもなく父の喪に丁り、喪明けの後、従祖の徽之が許州知州となると億はこれに依り学問に晝夜励んだ。徽之は間々語り「わが門を興すのはお前だ」と述べた。
  • 淳化中、闕に詣で文を献じ太常寺奉禮郎に改められ秘閣で読書させられた。二京賦を献じ翰林で試され進士第を賜り光祿寺丞に遷った。後苑の賞花曲宴で太宗が詩を賦するよう召すと側にいた億はこれに応じ、また金明池頌を上げ太宗はその警句を宰相に誦じた。翌年三月の苑中曲宴でも億は再び詩を献じ太宗は驚き有司に理由を問うと、旧制で未だ貼職(兼職)していない者は宴に預からないとされていた。帝は即座に億を直集賢院とした。億は表で郷里への帰省を求め銭十五万を賜った。至道初、太宗が自ら九絃琴・五絃阮を製し、頌を奏する文士が多かった中、独り億が優れているとして緋魚を賜った。
  • 二年春、著作佐郎に遷った。帝はその貧しさを知りしばしば恩賜を与え、越王の生誕使に任じた。当時、公卿の表疏の多くは億に文を借りることが多くその名は益々知られた。真宗が京府にあった頃、徽之が首僚(第一の側近)として邸中の書疏はすべて億が草定した。即位初、超えて左正言に拝され、詔で錢若水が太宗實録を修撰する際、億が参預し全八十巻のうち億が独り草した部分は五十六巻に及んだ。書が完成すると外任を乞い處州知州の養いに就いた。真宗はその才が史学に長じることを称え留めようとしたが固く請うたため許した。任地の郡人である周啓明は篤学で文才があり、億は厚く礼遇した。
  • 召還され左司諫・知制誥を拝命し金紫を賜った。咸平中、西鄙が未だ安寧でなかった際、靈州の棄守を近臣に議させる詔があり、億は上疏し次のように述べた。「臣はかつて史を読み、漢武帝が朔方郡を築いた際、平津侯(公孫弘)が『中国を疲弊させて無用の地に奉ずるものだ』と諫めて罷めるよう請うたことを見ました。帝は弁士の朱買臣らに十策で難詰させましたが平津侯は答えられませんでした。しかし私は平津侯が賢相であって買臣の弁舌に屈したのではなく、人君の意を将順する(穏やかに従わせる)ためだったと考えます。旧来、朔方の地は要荒(辺境)の外にあり声教が及んでおらず、元朔中に大将軍衞青が兵を奮って地を掠め郡県を置きました。今の靈州はまさに朔方の故墟にあたり、西鄙の僻地で数百里の間に水草もなく烽火亭障(見張り台)も互いに望めない状態です。道が通じ饟饋(兵糧輸送)が問題ない間は、なお大国の威声を張り中原の扞蔽(防壁)となりましたが、辺境がしばしば驚かされて以来、凶党が猖獗し、爵賞しても慎まず討伐しても得られず、曹光實・白守榮・馬紹忠・王榮の敗戦以来、資糧・屝履(履物)の損失は甚だ多く、将士・丁夫が相枕んで死に、商人を募って絹布を輸させ穀と交換させる際の対価も数倍に及びました。孤壤(孤立した土地)に築城し辺民が疲弊し国帑(国庫)が困窮しても辺人の命令や靈武の急を制することができず、数年の間に凶党は益々盛んになり、靈武の危うい城壁がわずかに存続するのみで、河外の五城は次々と陥落したと聞いております。ただ堅壁清野(籠城し野を焼く戦術)して食を蓄え、垒(とりで)を閉じ枕戈(武器を枕にして戦備をとる)し朝夕を凌ぐばかりで、いまだ一兵も一騎も出して彼らと角逐する勇気がありません。これでは靈武の存続が無益であることは明らかです。平津侯の『中国を疲弊させて無用の地に奉ずる』という言葉は今日にこそ当てはまります。私は存続には大害があり放棄には大利があると考えます。国家は輓粟(食糧輸送)の労と士卒流離の苦しみをすべて免れましょう。堯舜禹は聖の盛んなる者ですが、その地は数千里を超えず、明徳が天に至り四門は穆穆(謹厳)でした。武丁・成王は商周の明主でしたが、地は東は江・黄を越えず、西は氐・羌を越えず、南は蛮荊を越えず、北は太原を越えなかったのに頌声が並び興り至治と称えられました。秦漢が兵を尽くし土地を拓き肝脳を地に塗れさせたことと功徳を比べれば、同年に語ることはできません。昔、西漢の賈捐之は朱崖(海南島)の放棄を建議した際、当時の公卿にも異論がありましたが、元帝は衆説を排し独自の見識で決断し詔で廃止しました。人々はその徳を頌え、その詔には『議者は朱崖を棄てることで威が行われないことを羞じるが、時変に通ずれば万民の飢餓・危難を憂うことこそが最大であり、宗廟の祭祀も凶年には備えられぬのに、避けるべきでない恥辱を避けるべきか』とあります。私はこれが靈武に類すると考えます。もし土地を失うことを言うなら、燕薊八州・河湟五郡はさらに多く失われております、何も靈武だけが問題でしょうか。私が思うに、太祖は姚内斌に慶州を、董遵誨に環州を領させ、統べる兵はわずか五六千でしたが、すべて閫外(辺境の統治)を彼らに委ね、士卒は効命し疆場は安寧、朝廷に旰食(政務多忙)の憂いはなく、疆場にも羽書(緊急文書)の警戒はありませんでした。臣は将を選び辺に臨ませ廪賦を給し策略に資し便宜を許して行わせ、もし寇が内属を乱せば勁兵で撓し大信を示し、荒れた地を懐柔し遠地を振わせ賞格を諭せば、彼らは奔潰し衆叛し、我が大邦に敵し得ないと願います。もし廟堂での謀を成し功を短期間で挙げようとするなら、私は彼らがなお狡猾で財が豊富ゆえ簡単には破れないと考えます。むしろ靈州を棄て環慶を守り、その後に計をもって彼らを困らせるべきです。臣の策のように驍将数人を得て鋭兵一二万を提げ数県の賦を給しその用にあて、分守辺城させれば、寇は擒えられ朝廷は無虞となりましょう。」
  • 景德初、家貧を理由に江左の郡を典じるよう乞い、詔で通進銀臺司知・門下封駮事を兼ねさせられた。当時、吏部銓の主事の前宜黄簿・王太冲が大理評事に任じられた際、億は「丞吏の賤しい身分にこの清秩は適当でない」として詔を封じ返した。まもなく太冲は外に補せられ、億は俄かに史館判となり冊府元龜の編纂に王欽若とともにその事を総轄し、序次体制はすべて億が定め、群僚が分担して撰した篇序も億の竄定(訂正)を経て用いられた。三年、翰林學士に召され国史修撰を同修し、変例の多くは億の手によった。大中祥符初、兵部員外郎・戸部郎中を加えられ、五年に病により在告(休職)となった際、中使を遣わし太医に視察させ、億は謝章を拝し帝は詩を作り紙の端に「副予前席待名賢之句(お前を朕の前席に置き名賢を待とう)」と批書した。長い病により近職の解除を求めたが優詔で許されず朝直のみ免じられた。
  • 億は剛介(剛直で潔癖)で人に妥協せず、書局にいる間は李繼路振・刁衎・陳鉞・劉筠らとのみ厚く親しんだ。当時の文士は皆その品評を頼りとしたが、貶議された者は退いてしばしば怨謗した。王欽若が急に貴顕になった際、億は元来その人物を軽んじており欽若はこれを恨みしばしばその失を指摘した。陳彭年もまた文史の技能で出世していたが、億の名がその上にあることを妬み共に毀誉に及ぼうとした。上(帝)は元来億を重んじており、彼らの説に惑わされなかった。
  • 億は陽翟に別墅を持ち母がそこを訪れた際に病を得たため、帰省を請い返報を待たず出発した。上は自ら薬剤を封じ金帛を加え賜った。億は元来虚弱であり、この頃に病が重くなり解官を求めると、憲官(御史)が「命を待たずに去った」として弾劾する者があり、太常少卿・分司西京を授けられ居所での療養を許された。「君可思賦」を作り忠憤を述べた。冊府元龜が成ると秘書監に進んだ。七年、病が癒えて汝州知州に起用され、玉皇聖號が加上された際に陪預を求め代還すると叅詳儀制副使・禮儀院知として太常寺の秘閣を判官した。天禧二年冬、工部侍郎を拝命、翌年に権同知貢舉で考較の差謬により秘書監に降された。内艱(母の喪)に丁った際、折しも郊祀の礼が行われ億が礼楽を司っていたため、卒哭(喪の一段落)を待たず起復して工部侍郎として視事させられた。
  • 四年、再び翰林學士となり、詔で御集を注釈し兼史館修撰・判館事・景靈宮副使権を務め、十二月に卒した。享年五十七。子の紘を太常寺奉禮郎に録した。億は天性穎悟で幼少から死ぬまで筆を離さず、文格は雄健で才思は敏捷、少しも滞ることなく客と談笑しながら筆を揮い、精密で規則があり細字を得意とし、起草の一幅数千言に加除訂正することがなかった。当時の学者はこぞってこれを宗とした。博覧強記で特に典章制度に長け、当時多くの者が正しさを求めて彼に取材した。後進の誘導を喜び、名を成した者は甚だ多かった。人が片言でも記すに値するものを持てば必ず諷誦し、当世の述作を手ずから集めて『筆苑時文録』とし数千篇に及んだ。交游を重んじ性は耿介(潔白)で名節を尚び、多く親友に周給(施し)したためその廩禄も随ってすべて費やされた。釈典(仏典)に心を留め禅観の学にも及んだ。著書には『括蒼』『武夷』『頴隂』『韓城』『退居汝陽』『蓬山』『冠鼇』等の集があり、内外制・刀筆(公文書)を合わせて百九十四巻に及んだ。
  • 弟の偉は景德中に進士に挙げられ第三等に及第したが、億の縁で第二等に昇格した。億には子がなく従子の紘を後継とした。