宋史卷三百一 列傳第六十 邉肅

邉肅

  • 字は安國。應天府椘邱の人。進士及第し、大理評事・於潜縣知県を経て太常博士に累進した。三司使の魏羽に戸部判官として推薦され、南郊の祀典で尚書度支員外郎に抜擢された。
  • 帝が三司の徴税に無法(法によらぬ取り立て)が多いとして、至道初年に行帳司を置き財用の数を会計させた際、肅がこれを主管し、帳簿完成後に工部郎中へ遷った。
  • 真宗が大名府に行幸した際、肅は行在の糧草の経度を命じられ、開拆司の判官に改められた。曹州知州を経て邢州に徙った。契丹の大挙侵入に先立ち、邢州は地震が頻発して城壁が崩れ守備がなかった。帝は澶州にあって、もし邢州が守れなければ便宜により南方の他城へ退避せよと密詔した。肅は詔をあえて公開せず、丁壮を督励して城壁に登らせ、諸門を開いて所部の兵を配置して守った。契丹の騎兵が城下に迫ったが肅は戦って小勝し、契丹はその実情を測りかね三日で引き揚げた。鎮・魏・深・趙・磁・洺の六州が閉門して出撃しなかった際、老幼で城に逃れて来た者を肅はすべて城門を開いて受け入れた。
  • 樞密直學士に抜擢され、宣州・河南府・三班院・天雄軍・真定府と歴任し、給事中に累進した。王嗣宗が肅の後任となったが、嗣宗は肅と旧来の確執があり、通判の東方慶に肅がかつて州にいた際に公銭で私的に貿易して利を図り、吏に民の羊を強制的に買わせ、女子を買い自らの召使としたと訴えさせた。嗣宗がこれを帝に上奏したが、帝は肅が近臣であるとして官吏の取調べに委ねず、劉綜に取り調べさせその内容を示すと、肅は罪を認めた。守城の功により官三等を奪われるにとどまり、岳州團練副使に貶された。
  • 後に武昌安逺軍節度副使、光州知州、泰寧軍節度副使として泗州・泰州に徙り、卒した。子の調は尚書兵部員外郎・福建路轉運使に至った。