宋史卷三百 列傳第五十九 王沿

農政と用兵の論客

  • 王沿、字は聖源。大名館陶の人。春秋を学び進士及第。太常博士として、漢唐の辺境政策の変遷を論じ、河北の農地開発(十二渠の復旧)を提言。通判洺州の異論を退けつつも施策は保留された。
  • 開封府推官、河北転運副使として強壮による代替や廂軍の整理を提言、刑罰の過酷さの是正も建言。母喪服除後、邢州・河北転運使として牧監の廃止と農地転用、水利事業を実施し『春秋集傳』十六巻を著す。
  • 陝西都転運使として兵員削減を主張し知樞密院李諮に反対され左遷。滑州・成徳軍知事、河東都転運使を経て并州知事。元昊侵攻で豊州失陥を予見。涇原路経略安撫招討使として西関城を築造。
  • 定州の戦いで副都総管葛懐敏の進軍策に反対(結果的に敗北)、渭州では疑兵策で敵を退けた。晩年しばしば議論が食い違い、真定の獄事も強引な処断との批判があった。文集二十巻、唐志二十一巻。子の鼎。

王鼎――清廉剛直な監司

  • 王鼎、字は鼎臣。太常博士より江東刑獄提点として楊紘・王綽と共に不正摘発に努め「三虎」と呼ばれ恐れられた。深州知事として王則の乱に呼応した龎旦らの謀反を事前に察知し、首謀者十八人を処刑して鎮定。
  • 河北の飢饉救済、建州での間引き禁止令、河北刑獄提点として貴勢に憚らぬ弾劾を継続。淮南両浙荊湖制置発運副使として楊永徳の運河計画に反対し撤回させた。発運使として権貴への贈賄を排し、公平な漕運制度を確立。三司鹽鐵副使として包拯と論争しても譲らず。廉潔で子や族人にも厳格、財産を弟に譲った。晩年は猜疑心が強く、路州で急死。弟の豫も才気あるが官を捨てて江湖に遊んだ。