経歴
- 呂文仲は字を子臧といい、歙州新安の人。父呂裕は南唐の歙州録事参軍。文仲は江南で進士に及第し臨川尉、大理評事で宗室の書奏を掌り、太常寺太祝、少府監丞、『太平御覧』『太平広記』『文苑英華』編纂に参与、著作佐郎。
- 太宗が古碑刻を鑑賞する際、舒雅・杜鎬・呉淑と共にたびたび召され読ませられた。『文選』『江海賦』を読ませられて賜物を得た。翰林侍読を兼ね、侍書王著と交替で御書院に侍り、著作の学は書史(文仲)・筆法(著)・字学(葛湍)とそれぞれ分担して太宗の下問に応じた。
- 雍熙初、著作佐郎として王著の高麗使に副使として随行、帰国後左正言・福建巡撫。淳化中、陳堯叟と共に関西巡撫使を兼ね、内品方保吉の榷酤における専横を実奏したところ逆に保吉から訴えられ、御史の取調べで文仲は些細な失点で自ら誣伏したため罷職。太宗が事情を知り秘閣に復帰させ再び侍読とした。
- 崇政殿で太宗の草書経史故実数十軸を読み、石刻の詔を得て起居舎人・兵部員外郎・吏部銓同判・銀臺通進封駁司知院・審官院知院を歴任。咸平三年(1000年)工部郎中・翰林侍読学士、太宗歌詩三十巻の編纂詔を受け、審刑院知院。
- 咸平六年(1003年)御史中丞、景徳中に曹州の姦民趙諫の獄で内出しの姓名七十余人の全面追及に対し「広範な捕縛は動揺を招く」と対に諫め、帝から「執憲は嫉悪如仇であるべき、公然と党を庇うのか」と咎められたが「陛下の慈仁ならば処罰は廃棄に留まるだろう、名簿に記して監視し、後日改めて対処すればよい」と説き、その意見が容れられた。
- 工部侍郎・翰林侍読学士に戻ったが、風疾を得て百日の告を賜り、翌年刑部侍郎・集賢院学士としてまもなく卒去。子の呂永は奉禮郎。詞学と器韻に優れ、高麗使としては清廉で応対も評価され、後任の使者は必ずその先例を尋ねたが、性格はやや偏狭で時論には支持されなかった。著書『集』十巻。