宋史卷二百九十六 列傳第五十五 楊徽之

経歴

  • 楊徽之は字を仲猷といい、建州浦城の人。祖楊郜は閩の義軍校、父楊澄は転じて儒を学び浦城令に至った。徽之は幼くして刻苦して学び、同郷の江文蔚・江為とともに名を高めた。潯陽廬山で修学し、当時江表を治めていた李氏(南唐)の目を避けて密かに汴洛に至り竇儀・王朴に文才を認められた。
  • 後周顕徳年間、劉温叟の知貢挙で進士甲科に及第(同期十六人)、世宗の覆試を経て李覃・何曮・趙隣幾と共に選ばれ、校書郎・集賢校理として宰相范質に重んじられた。著作佐郎・右拾遺、竇儼の礼楽書編纂に参与。
  • 乾徳初、鄭玘と共に天興令に出て、府帥王彦超に礼遇された。蜀平定後は峨眉令に移り、宋白の玉津令在任時代に吟詠で交流。著作佐郎・全州知事、左拾遺・右補闕を経て太平興国初に帰還。太宗が詩名を聞き数百篇を献上させ、「十年の流落、今何ぞ幸いなる、忝くも君王に姓名を問われる」との謝詩を賜った。
  • 侍御史・刑部権判、庫部員外郎・金紫。『文苑英華』編纂で詩選百八十巻を分担編集、刑部・兵部郎中を歴任、雍熙詞を献じ帝がその韻を賜った。端拱初、左諫議大夫・許州知事、史館事判・修撰。
  • 太学の五経博士が欠員のままであることを憂い、隠逸を招き科挙合格者を増やしても専任教育者が不足していると上言、詔で嘉納された。集賢院判に転じ、乾元楼での観灯に召され精力の衰えぬことを称賛された。
  • 劉昌言が下位から抜擢されて機務を任され人望に不安を抱いていた際、右計使童儼が劉昌言に取って代わろうと画策し、徽之に「上は張洎・銭若水を厚遇し重用しようとしている」と伝えたことが、直史館銭熙を経て昌言・張洎に伝わり、洎は「徽之が飛語を構えて自分を中傷した」と讒言。真宗が問い質した際に事情が明らかとなり、徽之は山南東道行軍司馬に左遷、銭熙は職を落とされ朗州通判となった。
  • 未着任のまま鎮安軍行軍司馬に移り、真宗が開封尹の頃に選ばれた僚佐として左諫議大夫・開封府判官、東宮建立に伴い左庶子を兼ねた。田を巡幸した際、真宗が詩を作って寄せた。給事中を経て真宗即位後、工部侍郎・樞密直学士、秘書監を兼ねる。咸平初、礼部侍郎、二年に病により兵部・秘書監に転じ「図書の府は清浄無事、卿の養性に良い」と労われた。
  • 秋、特に置かれた翰林侍読学士に夏侯嶠・呂文仲と共に任じられ、秘閣で宴を賜り詩で称賛された。足の病で告を請い上は名薬を賜ったが郊祀・扈従は免除された。北巡の際は力を尽くして苑中に赴いて辞去を告げ、真宗は「卿は医薬に努めよ、また会おう」と労った。大名に駐蹕の際、特に手詔で存問。翌年春、車駕帰還後にも使者を遣わされ、まもなく卒去、享年八十。兵部尚書を追贈、家に錢五十万・絹五百匹を賜り、外孫宋綬を太常寺太祝、姪孫楊偃を進士出身に授けた。
  • 純厚清介で規矩を重んじ、非道な出世を嫌った。温仲舒・寇凖が「搏撃」で高位を得たことを批判し、後進が競争志向に流れることを憂え、時人はこれを知言と評した。李昉・王祐にのみ深く推服され、石熈載・李穆・賈黄中と文義の友となった。唐以来の士族の人物や典故を詳細に記憶し、詩を好んで客と論じては終日倦まなかった。没後、家に残された『集』二十巻を夏侯嶠が上進した。子はなく、妻の死後も家に緡帛が賜られた。

楊澈(字晏如)――経歴

  • 楊澈は字を晏如といい、徽之の一族。父楊思進は後晋天福年間に北渡し青州北海に居を構えた。澈は幼くして聡警で七歳で『春秋左氏伝』を読んですぐ大義を理解し、後周宰相李穀にその暗誦を認められた。十六歳で父の任地趙州に随行、河決の際に大澤の蘆葦を筏に組んで届ける即応で評価を得た。
  • 建隆初、進士に及第(竇儀が「文詞敏速、書檄の任に当たる」と評価)、河内主簿・青州司戸参軍。州知事張全操の不法を厳正に審理。太祖に召されて禁中で試され著作佐郎・渠州知事。江南平定後、虔州通判として曹彬の軍に加わり、偽帥郭再興の壘に単騎で赴いて朝廷の威信を説き投降させ、精鋭五百人を京師へ送った。黎・羅二姓の豪族の乱を鎮圧した。
  • 右賛善大夫・淄州知事、親の孝で青州同判に転じ祠部員外郎・淄州知事・舒州知事・祠部郎中を経て雍王府記室参軍・金紫。景徳初、澶淵行幸の際に東京留守判官として兵部郎中に転じたが、留守を担う王が獄囚の逃亡で驚いて発病、閨門の不祥事も重なり輔導不善で免官。祠部郎中に復し享年七十四で卒去。子の楊巒は淳化進士、職方員外郎。