経歴
- 梁顥は字を太素といい、鄆州湏城の人。曾祖梁沿は成武主簿、祖梁惟忠は明経で天平軍節度判官、父梁文度は早世し、顥は叔父に養われ王禹偁に師事した。禹偁は当初その質問に答えなかったが、顥が発憤して読書を続けると大いにその才を認めた。
- 進士初挙に落第した際、闕下に長大な上疏を献じた。要旨:唐代は科挙で人材を得たことが治世の礎となったが、宋代は詩賦策論の可否のみで人物を判断しており、優れた人材を取りこぼしている恐れがある、と論じたが上奏は容れられなかった。
- 雍熙二年(985年)再挙、廷試で禺中(正午近く)に賦を献じ太宗に殿上に召された。甲科及第、大名府観察推官。梁湛と共に右拾遺・直史館に召され緋を賜り登聞院を判した。趙昌言に仕えた縁で翟馬周事件に連座し虢州司戸参軍に貶されたが、魚台県知事から大理評事、殿中丞に復帰。
- 開封府推官・三司関西道判官・太常博士を歴任、母の喪に服し右司諫に改まる。陝西への使者の途中「聴政箴」を献じた。咸平元年(998年)楊励・李若拙・朱台符と同知貢挙、銭若水の『太祖実録』重修に参与、修起居注も兼ねた。
- 大名で扈蹕した際、辺事について長大な上疏を送った。要旨:兵法は賞罰を明らかにすることに尽きるとし、傅潜が命を受けながら兵を動かさず守塁に閉じこもった罪を厳しく糾弾(孫武・穣苴の軍法の故事を引く)、軍法により斬るべきだったと論じた。李広の柔軟な用兵、唐高祖の遊撃騎兵運用の故事を引き、辺境の武勇な将十人を選び五十騎ずつ配して機動的に対応する策を提言。
- 咸平三年(1000年)李宗諤・趙安仁と共に知制誥、金紫を賜る。王均の乱で峡路安撫使、大理寺の刑罰の失当を正すため代任、張斉賢の関右安撫の副使を務めた。吏才があり進対の弁も明敏で真宗に評価された。群臣の封事の可否を薛暎と共に審査し、河北の飢饉・盗賊対策では東西路巡検使を分担。
- 右諫議大夫・戸部使を経て翰林学士・審官院同知・三班院、景徳元年(1004年)開封府権知。風姿優れ体力強壮で疾病少なく、閨門は睦まじく交友も長く変わらなかったが六月に急病で卒去、享年九十二(原文ママ、実際は五十二とも考えられるが底本のまま記す)。帝は深く悼み賻贈を加えた。著書『文集』十五巻。子の梁固・梁述・梁適が名を残し、梁適には別伝がある。
梁固(字仲堅)――経歴
- 梁固は字を仲堅といい、幼くして志節があり『漢春秋』を著し父梁顥に才を認められた。父の蔭により進士出身を賜ったが登聞院で前命を辞退し、改めて郷挙による及第を望んだ。大中祥符元年(1008年)服勤詞学科に甲第で及第、将作監丞・密州同判、著作佐郎・著作郎・直史館を歴任し緋を賜る。
- 戸部判官・戸部勾院判。気調俊爽で財を軽んじ慷慨な人柄で吏道に明るかった。馬元方の三司での粗略な仕事ぶりを指摘し、しばしば対を求めて上奏した。獄事の裁定でも公平と評された。天禧の大礼で頌を奏したが精工なるも間もなく卒去、享年三十三。著書『集』十巻。