宋史卷二百九十六 列傳第五十五 師頑

経歴

  • 師頑は字を霄逺といい、大名内黄の人。父師均は後唐長興二年(931年)の進士で永興節度判官となり関右に居を構えた。師頑は篤学で兄師頌と齊名し、建隆二年(961年)進士に及第(竇儀が知貢挙)、耀州軍事推官となるも病で長く任地に赴かず、開宝年間に觧州推官として復帰。
  • 太平興国初、大理寺丞・陝西河北転運判官、著作佐郎・監察御史・永興軍府通判。秦王廷美の公帑緡銭の私用事件に連座して乾州団練副使に降格されたが旧官に復帰。殿中侍御史・邠州通判、簡州知事、起居舍人、再び殿中侍御史・資州眉州知事を歴任し、簡静な統治で蜀人に慕われた。
  • 侍御史・安州知事、朗州に移り工部郎中に抜擢され陝州知事、金紫を賜る。西鄙用兵の輸送路で軍士の逃亡が多発する中、厳しく巡捕して盗賊を他境に追った。刑部郎中を経て真宗により旧臣として厚遇され、知制誥・史館修撰を兼ね、咸平二年(999年)温仲舒・張詠と同知貢挙。翌年翰林学士に召され、五年に陳恕と再び知貢挙、審官院知院・通進銀臺封駁司を兼ね卒去、享年六十七。
  • 官によって葬儀が護られ、子の師仲回は秘書丞となり喪に服した。曠達夷雅で搢紳の多くがその操尚を慕った。著書『集』十巻。三子(師仲回・師仲宰・師仲説)が進士及第・官職を得た。