宋史卷二百九十五 列傳第五十四 楊察

経歴

  • 楊察は字を隱甫といい、先祖は晋の人で唐僖宗の蜀行幸に従い成都に居住。祖父楊鈞は孟昶(後蜀)に仕えたのち宋に帰順。父楊居簡は真宗朝で尚書都官員外郎に至り廬州に赴任し合肥籍となった。
  • 景祐元年(1034年)進士甲科、将作監丞・宿州通判、秘書省著作郎・直集賢院、潁州・寿州知事、開封府推官、三司塩鉄度支勾院判・修起居注、江南東路転運使。若さゆえに軽んじられたが数度奸を摘発して威を示した。人事考課の推進を重んじ「按察は職務であり、余分な収益の摘発は俗吏の仕事に過ぎない」と語った。
  • 右正言・知制誥・礼部貢院判。答案の匿名制度を廃し文体を唐風に戻すべきという意見に対し、清濁の弊害を防ぐには防禁を維持すべきと反論し議論を退けた。晏殊が執政となった際、妻の父にあたる嫌疑から龍図閣待制に転じ、母の喪に服したのち知制誥に復帰、翰林学士・開封府権知、右諫議大夫・御史中丞権を歴任。
  • 御史の選抜が甘くなっていることを批判し、風聞による弾劾の正当性を擁護する上言も行った。宰相陳執中への忌避、三司戸部判官楊儀の請託事件への連座で、かつての開封府在任時の失出(判決の誤り)を理由に信州知事に左遷、揚州に移った後、翰林侍読学士・龍図閣学士・永興軍知事、端明殿学士・益州知事、礼部侍郎、開封府知事、翰林学士・三司使権を再任。
  • 内侍楊永徳の讒言や三司の獄事に連座した衛士事件の処理を巡り開封府に移管され、三司使を辞して戸部侍郎・三学士提挙集禧観、翰林学士承旨を経て三司使に再任。鍾乳(薬石)の過服で癰を病み卒去、礼部尚書を追贈、諡「宣懿」。
  • 風儀が優れ、七歳まで言葉を話せなかったが博識の母に教育され、文才を発揮した。制誥の起草は一見無造作に見えても仕上がりは雅緻で当代の評判を得た。事に当たって明決で、癰を患いながらも財政議論に参加し、その激務ぶりに周囲は「精神を使い切った」と評した。著書『集』二十巻。子がなく兄の子楊庶を嗣とした。弟の楊寘は進士第一位に及第、潤州通判となったが母の喪により毀瘠して早世し、時人に惜しまれた。

史論

  • 仁宗の治世は宋建国から百年に近づき、天下は安寧だったが法制は徐々に弛緩し、僥倖の弊害が西陲の用兵とともに関中を困窮させ、天子はこれを憂いて人材を求めた。時に俊傑が輩出し、尹洙は兵間を奔走しつつ天下の事を論じ、孫甫は言路で活躍し、いずれも文学方正で知られた。謝絳の文詞議論は特に儒林から重んじられ、朝廷が重用しようとした矢先に没した。葉清臣・楊察は進士高第から数年で侍従の位に至り、朝廷に立って謇謇として阿らず一時の名臣となったのは、まさに上に自ら抜擢されたゆえに奮励し報恩に努めたからであると結ぶ。