経歴
- 王洙は字を原叔といい、応天宋城の人。幼くして聡悟博学。進士に及第する際、同保の郭稹が祖母の禫(喪明けの祭)を冒したと告発された事件に連座を免れる道を勧められたが「保証したことを取り消したくない」として共に不合格となった。
- 再挙して甲科及第、舒城県尉。県民鍾元の殺妻事件の審理不備で免官、富川県主簿。晏殊に厚遇され府学教授に推挙。国子監説書・直講・史記漢書の校勘、史館検討・太常礼院同知・天章閣侍講を歴任し邇英閣で経筵に侍した。
- 太常博士・国子監同知、『崇文総目』編纂に参与、尚書工部員外郎・国朝会要編纂、直龍図閣。太常寺権同判の際、進奏院での祭祀で女妓と雑坐したことを御史に弾劾され濠州知事に左遷、のち襄州知事。貝州の卒の叛乱の際、教練の停止案を退け庫兵を通常通り供給させて動揺を防いだ。
- 徐州知事の頃、京東の飢饉に際し商胡の堤防修築に充てる予定の薪を穀物に換え、流民に希望者を募って軍に加え千余人を得て盗賊を減らした功績が京東第一と評された。亳州知事、天章閣侍講・史館検討。
- 明堂の礼制に通じ、宋祁の推薦で明堂の儀を定める役を担当。雅楽の制定でも胡瑗と共に鐘磬を新造したが形制の統一を欠き、皇祐五年(1053年)の南郊祭祀で新楽が試用されたのち非難を受け廃された。
- 夏竦の死去に際し、諡「文献」の草制で「僖祖と同諡は不可」と封還し、王溥の諡「文献」・章得象の諡「文憲」の音の重複も指摘、太常はこれにより夏竦を「文荘」、王溥・章得象の諡を改めさせた。
- 契丹への使者として鞾淀に赴いた際、耶律防が描いた真宗肖像画の持参を求められたが「ここは瞻拝の地ではない」として拒み、再度の模写要求も強く拒否した。
- 天下の田税不均衡を正すため郭諮・孫琳の「千歩開方法」の県への頒布を提言。張貴妃(温成皇后)の追册に際し、非礼を指摘しつつも内侍石全彬・宰相陳執中・劉沆らの意向に迎合して翰林学士に抜擢された経緯があり、廟の楽の使用を巡って礼院・開封府・御史・諫官らと対立が起きた。
- 甥(兄の子)王堯臣が参知政事となったのを機に侍読学士兼侍講学士に改められ、一学士から二学士への任は前例のないこととされた。
- 京東・河北の豊作を機に辺境糴買の実勢価格の適正化を提言、内蔵庫の禁銭を借りて時に応じ糴買することを提案。選任される諫官・御史が執政の推薦者に偏っている現状を批判。
- 病に伏し、経筵に復帰できぬまま卒去。図緯・方技・陰陽五行・算数・音律・詁訓・篆隷まで広く通じた。諡「文」を賜ろうとしたが御史吳中復の異議で取り止め。『集韻』編纂に参与、『三朝経武聖略郷兵制度』を著し、『易伝』十巻・雑文千余篇。
王欽臣(字仲至、王洙の子)
- 欽臣は字を仲至といい、清亮で志操があった。文を欧陽脩に贄として献じ、その器量を認められた。蔭により官に入り、文彦博の推薦で学士院試を経て進士及第を賜った。
- 陝西転運副使、元祐初に工部員外郎、高麗への使者を務め太僕少卿に進み秘書少監。開封尹銭勰が哲宗に「近年書詔がふさわしくない、誰を学士にすべきか」と問われ欽臣を推薦したが、章惇が好まなかったため銭勰自身が学士となった。
- 開封を管掌し、集賢殿修撰・和州知事、饒州に移り太平観提挙に左遷。徽宗即位後に待制として成徳軍知事に復帰し、享年六十七で没した。多くの文を著し名士と広く交わり、蔵書数万巻を自ら校訂し「善本」と称された。