宋史卷二百九十四 列傳第五十三 胥偃

経歴

  • 胥偃は字を安道といい、潭州長沙の人。若くして学問に努め、柳開に文を評されて「いずれ天下に名を得よう」と予言された。進士甲科で大理評事、湖州・舒州通判、直集賢院、吏部南曹同判、太常礼院知事。
  • 太常丞・開封県知事の際、御史高升と共に進士試験で封じた答案を開封して有名者を優先する不正を働いたことがある。祕書省著作佐郎に左遷、光化軍酒務監、鄧州通判に復帰、太常丞、許州知事林特の下で通判、漢陽軍知事、三司度支勾院判官・修起居注を歴任し尚書刑部員外郎から知制誥、工部郎中、翰林学士・権知開封府。
  • 忻州の地震に際し「地震は陰の盛んなること」であり「後宮外戚の恩沢が多いこと」がその表れと論じ、将師を選び辺塞に備えるべきと説いた。趙元昊が朝貢を絶った際は「急襲は過酷である。まず不臣の状を問い、辞が屈するのを待って兵を加えれば、非は彼にあり王師の出兵に大義名分が立つ」と提言。
  • 戍卒の任期更新制、冬衣支給を巡る賄賂事件で三十余人が投獄された際、酷寒を理由に減刑を上奏。西方への出征兵士の妻子が死罪に問われた際、毒殺の提案が出たがこれに強く反対し、帝も思い直した。宦官程智誠らの罪に軽重の差をつけた措置を「近きを恤み遠きを遺す、政に非ず。まして同罪異罰は」と批判し、皆同様に赦させた。まもなく卒去。
  • 未仕の頃、良田数十頃を所有していたが、出世後は全て一族に分与した。歐陽脩を見出して娘を娶わせ、范仲淹の刑獄糾察を巡り対立が生じた(後に修は仲淹に肩入れし、偃との間に軋轢を残した)。子の胥元衡は都官員外郎に至った。