出自と経歴
- 王禹偁は字を元之といい、済州鉅野の人。代々農家の出。九歳で文をよくし、畢士安に見出された。太平興国八年(983年)進士に及第、成武主簿を授けられ長洲県知事に転じ、大理評事に改まった。同年の進士羅処約と呉県で唱和し評判を得た。
- 端拱初、太宗にその名を聞かれて召試され、右拾遺・直史館に抜擢、緋を賜わり、特に文犀帯を下された。「端拱箴」を献じて諷諫とした。
禦戎十策と時政論
- 当時北辺が未だ平穏でなく、群臣に辺事を問われた王禹偁は「禦戎十策」を献じ、漢代の事跡を借りて論じた。漢の十二君のうち賢明とされる文帝・景帝の世は匈奴の軍臣単于が最強盛だったのに対し、昏乱とされる哀帝・平帝の世は呼韓邪単于が毎年入朝したことを挙げ、その差は「徳」と「時」にあると論じた。
- 宋の広大さは漢に劣らず、真宗の聖明は文帝に劣らないとし、外は将権を重んじ諜報を活用、内は冗官を省き経費を節約すべきと説いた。帝はこれを深く嘉した。
- 夏侯嘉正・羅処約・杜鎬らと『三史』の校正を上表し行った。淳化二年(991年)、親試貢士の際、即座に詩を賦して帝を悦ばせ、左司諫・知制誥に抜擢された。
- 京城の旱に際し「一穀不収を饉、五穀不収を饑という」と論じ、百官以下の俸禄を減じ、君臣ともに天譴に応じるべきと上疏。自らも俸給を減じるよう申し出た。また塹壕を掘って冢墓を侵すことの禁止、外州配流者のうち贓盗でない者の釈放などを提言。
- 大理寺で廬州の妖尼道安による徐鉉誣告事件を審理し、道安の反坐を主張して雪冤に成功したが、自身は商州団練副使に貶され、のち解州に移された。
- 咸平四年(すなわち至道元年頃)左正言、直弘文館。李継遷の討伐について、力攻めではなく計略で取るべきとし、罪状を明示して蕃漢に賞を示せば継遷は自ずと滅ぶと説き、その後潘羅支に射殺された継遷の顛末は王禹偁の言葉通りとなった。
翰林学士から晩年へ
- 至道元年(995年)翰林学士・審官院知院、通進銀臺封駁司を兼ねる。孝章皇后の崩御に際し旧礼に従うべきと発言して謗訕の罪に問われ、工部郎中として滁州知事に左遷。
- 滁州在任中、李継遷の制書を起草した際の潤筆として送られた馬五十匹を辞退。福建の鄭褒が徒歩で訪ねてきた際には馬を買い与えた逸話がある。揚州知事に移り、真宗即位後は刑部に転じた。
- 直言を求める詔に応じ「五事疏」を上奏:一に辺防を謹み契丹・李継遷双方との和平を図り民の輸送負担を軽減すること、二に冗兵・冗吏を減らすこと(開宝年間の官制の簡素さを引き、太平興国以降の官職増加による財政圧迫を批判)、三に選挙を厳格にし濫官を防ぐこと、四に僧尼を淘汰すること(万僧が一日一升の米・年一匹の絹を費やす計算を示し、寺院造営の莫大な費用を批判)、五に大臣を親しみ小人を遠ざけること(唐の裴洎の言を引用)。
- この上疏により知制誥に復帰。咸平初、『太祖実録』の編纂に参与し、事実を直書したため、意見の合わない宰相張斉賢・李沆と対立し、黄州知事に出された。「三黜賦」を作り「身は屈するも道は屈せず、百たび謫せられても何ぞ虧けん」との句を残した。
- 咸平三年(1000年)、濮州で盗賊が夜に城に侵入し知州王守信・監軍王昭度を脅かした事件に際し、上疏して五代の乱以来続く「江淮諸郡の城隍毀却・武備撤廃」の弊害を論じ、太祖・太宗が藩鎮の跋扈を抑えるために取った政策が今や弊害を生んでいると指摘。城池の頽廃・兵仗の不備・軍の未訓練という三大患を挙げ、江淮諸郡に守捉軍(五百人以下)を置き城壁を修めるよう提言。
- 咸平四年、州境で虎の闘争や鶏の夜鳴き、冬の雷などの怪異が続いた際、『洪範伝』を引いて自らを弾劾する上疏を送った。真宗はその才を惜しみ、蘄州に移した。任地に至って一月足らずで卒去、享年四十八。訃報に真宗は深く悼み、家に厚く賻を賜り、一子に出身を賜った。
- 文才に優れ、事に敢言し人物評価をはばからなかった。「元和の世に李絳・崔羣に仕えたなら恥じることはなかったろう」と語ったという。孫何・丁謂らを門下から輩出した。著書に『小畜集』二十巻、『承明集』十巻、『集議』十巻、『詩』三巻。子の王嘉祐・王嘉言も名を知られた。
- 王嘉祐は寇準の下問(「私が開封尹となったことへの外の評判は」)に対し、「あなたが宰相に入るという話です」「私見では宰相にならぬ方がよいでしょう。宰相となれば名望を損ないます」と忌憚なく答えた逸話が残る。寇凖は「元之(王禹偁)は文章では天下一だが、深識遠慮では君に及ばない」と嘆じたという。孫の王汾は進士甲科に及第し工部侍郎に至り、元祐党籍に入った。