宋史卷二百九十三 列傳第五十二 田錫

田錫(字は表聖、嘉州洪雅の人、太平興国3年進士――咸平6年(1003年)冬没、享年64)。太宗・真宗二代に仕えた諫官で、軍国の要機・朝廷の大体・辺事など多数の上疏を行い直言を貫いた。真宗から「直臣」と評された。著書に『咸平集』。

年表(6件)

出自と経歴

  • 田錫は字を表聖といい、嘉州洪雅の人。幼くして聡明で、読書と作文を好んだ。峨眉県令の楊徽之、玉津県令の宋白に厚遇されて名を挙げられ、名声が広まった。
  • 太平興国三年(978年)、進士高第に及第。将作監丞・宣州通判、著作郎・京西北路転運判官、左拾遺・直史館を歴任し緋魚を賜った。

軍国の要機・朝廷大体の上疏

  • 諫官となって間もなく、「軍国の要機」一件と「朝廷の大体」四件を上疏した。
  • 要機:太原を平定してから二年、幽燕(燕雲十六州)は依然として異民族に占拠されており、郊祀・耕籍の礼に乗じて用兵を議すべきと説く一方、交州(ベトナム)は攻めても戦功なく、「聖人は疆土を広げることより徳業を広めることを務める」として、交州への出兵には反対した。
  • 大体その一:諫官が廷争せず、給事中が封駁せず、御史が弾奏せず、集賢院・秘書省に書籍と職官が揃っていない現状を批判。
  • 大体その二:京師では仏寺・道観の造営が盛んな一方、尚書省の庁舎が手狭で、九寺三監が仮住まいしている実情を批判。
  • 大体その三:獄官令に定められた枷杻の寸法を超え、鉄製の枷を用いていることを批判し、唐太宗が明堂図を見て徒刑を減じた故事を引いた。
  • 疏奏に対し優詔・褒答があり、銭五十万を賜った。同僚は「今日のことは稀有だ、少し韜晦せよ」と勧めたが、田錫は「君に事える誠は尽くすのみ」と答えた。
  • 当時、宰相趙普が群臣の章奏をまず自分に見せるよう命じていたことを、田錫は書簡で「至公の体を失う」と批判し、趙普はこれを認めて謝した。

河北転運副使時の辺事上疏

  • 太平興国六年(981年)、河北転運副使として辺事の上疏を送り、「動静の機は妄りに挙げてはならず、安危の理は軽々しく語ってはならない」と説いた。
  • 辺将が羊馬の小利や斬首の小勝を功として敵の怨みを買い、乱を招いていることを批判し、将帥を戒めて封守を固め、互市を許し捕虜を撫恤して帰すことを提言。五年を出ずして河朔の民は農業に専念でき、要害の地に軍儲を積めると論じた。

その後の歴任と晩年

  • その後、相州知事、右補闕、睦州知事(孔子廟を建て、九経を下賜させ学問を興した)、文明殿火災に際して再び時政を極言、起居舍人、知制誥、兵部員外郎を歴任。
  • 端拱二年(989年)、京畿の大旱に際し「調爕倒置」の語を含む上章で宰相の怒りを買い、戸部郎中として陳州へ左遷。殺人獄の裁断の遅滞により海州団練副使に責授され、単州に移された。
  • のち工部員外郎、直集賢院、至道年間に旧官復帰。真宗即位後は吏部で秦隴に出使し、陝西数十州が霊夏の役で苦しむ様を上章。
  • 審官院・通進銀臺封駁司を兼ね、金紫を賜る。魏廷式と議論が合わず泰州知事に出る。咸平三年(1000年)、翰林学士承旨宋白の推挙により朝に呼び戻され、しばしば召対して時事を論じた。
  • 皇覧編纂を献策:旧来の御覧は分類記事のみであったため、四部から抄録して新たに『御覧』三百六十巻を編むことを提案。あわせて経史の要語を集めた『御屏風』十巻を献じた。実際に御覧三十巻・御屏風五巻を先に上呈し、それぞれに序文を付した。
  • 咸平五年(1002年)、再び銀臺を掌り、民の飢えや盗賊の発生など詔勅の不便を条奏。侍御史知雑事・右諫議大夫・史館修撰を兼ね、連続して八疏を上げ時政の得失を直言した。
  • 咸平六年(1003年)冬、病没。享年六十四。遺表で君主に慈倹と治乱への戒めを勧め、真宗はこれを読んで悲しみ、宰相李沆に「田錫は直臣である。朝廷に過失があればその上奏がすぐに至る。このような諫官は得難い」と語ったという。工部侍郎を追贈され、二子は大理評事に任じられた。
  • 人柄は耿介で交わりを結ばず、権貴の門に赴くことなく、終日端座して怠らなかった。魏徴・李絳の人となりを慕い、諫言を任とした。「自分が朝廷に立って以来、五十二篇の章疏はすべて諫臣として当然のことを言ったに過ぎず、後世に誹謗されぬよう控えを残す必要はない」として全て焼却させた。性格は頑固で、地方統治には特筆すべき業績がなかった。著書に『咸平集』五十巻。