宋史卷二百九十二 列傳第五十一 孫抃

出自と初任

  • 孫抃、字は夢得、眉山の人。6世祖の孫長孺は書を蔵することを好み「書楼孫氏」と号された。子孫は田を業としてきたが抃が初めて読書に励み文をよくした。進士に及第し大理評事・直集賢院として絳州通判、学士院試を召され太常丞・直集賢院に除され開封推官となり三司開拆司を判じ起居注を同修、右正言・知制誥に遷り起居舎人・翰林学士兼侍読学士・史館修撰に累遷、尚書吏部郎中に累遷。
  • 抃は久しく顕要にいたが建言することが少なかった。皇祐年間、右諫議大夫・権御史中丞となった際、諫官の韓絳が抃は「糺繩(監督矯正)の才がなく風憲の任にふさわしくない」と論奏し、抃は自ら疏を上げて「臣は今の士人が趨進の者が多く廉退の者が少ないのを見ている、善く事を求める者を精神があると言い、人を訐(あばく)ことに長ける者を風采があると言い、捷給で嗇夫(小役人)のような者は議論があると言い、酷吏のように刻深な者は政事があると言う、諫官の言う才とはこれのことなのか、もしそうなら臣は本当にできない」と述べた。仁宗はこの言葉に感じ入り視事を促し審官院知事を兼ねさせようとしたが、抃は言責の任と事局の兼任は不適当だと辞し止められた。
  • 御史台にいる間、事を論じることは激しくなかったが人材の推薦を特に喜んだ。帝が入内都知の王守忠に武寧軍節度使を授けようとした際、抃はこれを罷めさせた。温成皇后の葬儀で劉沆を監護使に任じた際、抃は「沆は宰相であり后妃の葬儀を担当すべきでない」と述べた。当時また后のために陵を建て廟を立てる議論が起こり、抃は官属を率いて非礼だと述べ、対面を求めて強く争ったが得られず地に伏して起たなかったため、帝は表情を改め退出させた。

参知政事と晩年

  • 御史が宰相の梁適の罷免を求めたがまだ聞かれなかった際、抃は「適は相位にあって上は権衡を保てず下は子弟を訓えられなかった、言事官がたびたび論奏しても報告がなければ適を罷めなければ物論(世論)を慰められない」と奏した。宰相の陳執中の婢で嬖妾の張氏を鞭打って殺し証拠を隠滅した事件で執中が取り調べを許さず勿論とされたが、抃は再び官属と対面を求めて論列し疏を10通も上げ、適・執中はついに共に罷免された。
  • 翰林学士承旨に改まり再び侍読学士を兼ね、帝が史記を読み亀卜の伝を問い「古人の動作は必ずこれ(卜筮)によるのか」と問うと、抃は「古に大疑があれば自らの心にまず決断させそれから衆に諮る、それでもなお天命がないと言えようか、そこで亀に命じて吉凶を断じる、いわゆる謀は心に及び、謀は卿士に及び、謀は庶人に及び、謀は卜筮に及ぶというのは聖人が誠を貴び専ら人謀のみに頼らず神と契ることでよしとしたのだ」と答え、帝はその対を善しとした。諫官の陳升之が転運使の選用責任と考課の三法を上呈した際、御史中丞の張昇と共に抃にこれを典らせたが結局進退を決めるまでには至らなかった。禮部侍郎に再遷、抃は久しく侍従にあって泊如(あっさりしていた)としており人々は長者と評した。まもなく樞密副使の程戡が罷免され帝は旧人を用いようとし抃を命じ、年中に参知政事となった。
  • 抃は篤厚寡言で質朴、才略に乏しく威儀もなく、両府にあること久しいが功過を判断できず、また忘れっぽく言語・挙止が笑いを誘うことも多かった。御史の韓縝が弾劾し観文殿学士・同羣牧制置使に罷免され再び侍読学士を兼ねた。英宗即位後、戸部侍郎に進み老いを告げ太子少傅として就第、卒した。太子太保を贈られ諡は文懿。