宋史卷二百九十二 列傳第五十一 丁度

出自と初任

  • 丁度、字は公雅。先祖は恩州清河の人。祖父の顗は後唐の清泰初年、契丹に陥れられ逃げ帰り祥符に移住した。父の逢吉は医術をもって真宗の藩邸に仕え、書を集めることを好み儒者と交わった。度は学問に力を尽くし尚書を読むことを好み、書命10余篇を擬したことがあった。大中祥符年間、服勤詞学科に登り大理評事・通州通判に改まり太子中允・直集賢院に進んだ。国子監の進士送りの不実に坐して齊州の税監に降格され太常礼院を知事し吏部南曹判事となった。
  • 六事を上書し「一、講読官を増やす、二、諫員を増やす、三、大功以上の親に廕(蔭)の用を補う、四、河北・河東の役兵を禁軍に補う、五、令佐(地方官)に墾田の殿最を籍する、六、公事に坐して私罪で杖を受けた者は保任を聴く」と述べた。章献太后がこれを善しとした。旧制では監司・藩鎮の辞謁は対を賜っていたが、仁宗即位の初め中書・樞密に付すだけにされ、度は「附奏では壅蔽を防げない」と述べた。かつて王鳳論を章献太后に献じて外戚を戒めた。三司磨勘司・京西転運使を歴任、司天が永昌陵に白気があるので増築で厭勝すべきと言い視察が詔されたが、度は「神道は静を貴ぶ、軽々しく修繕すべきでない」と奏しこれを止めた。

辺境策と学問

  • 知制誥に入り翰林学士に遷り在京刑獄を糾察、太常礼院を判じ群牧使を兼ねた。劉平・石元孫が敗れた際、帝が辺の禦し方を使者に問わせると度は「今士気は傷つき沮喪しているので、もし巣穴を追い詰め千里に糧を運び軽々しく人命を用いれば一朝の意を快くするに過ぎず得策ではない、唐は長安を都とし天寶以後河湟が覆没し涇州の西門が開かなかったが京師は寇境から500里も離れておらず重兵を屯し烽火を厳にすれば侵軼の憂いはあっても結局は無事だった。太祖の時代、辺任は節将を用いず材器を審選し廩賜を豊かにし賞罰を信じさせ辺境は20年近く安寧だった。今の策としては亭障を謹み斥堠を遠くし要害を控扼するのが制禦の全計である」と述べ十策を条上し「備邉要覧」と名づけた。当時西方の情勢が定まらず二府・三司は旬休を廃していたが、度は「苻堅が百万の師で晋を寇した際、謝安は駕を出して遊び人心を安んじた、休暇を故の如くし外夷に朝廷の深浅を窺わせないようにすべきだ」と述べこれが採用された。
  • 中書舎人に累遷し承旨となった。葉清臣が商州に監を置いて大銭一枚を十文とする鋳造を求めた際、度は「漢の五銖・唐の開元・国朝の銭法は軽重大小最も折中で歴代の改更は精密でも1年経たずに再度改鋳される、議者は峻法で盗鋳を絶とうとするが、昔漢が銭幣を変えた際、盗鋳で死んだ者は数十万に及び、唐が乾元銭・重輪乾元銭を鋳した際も銭が軽く幣が重く厳刑でも止められなかった、今禁旅の戍辺は月に100銭を給されるが大銭ならわずか十枚になり旧銭は流通せず新銭を出さなければ芻糧の価格が上がる、臣はかつて湖州知事のとき茶禁を犯した者が千銭を受け取り契約書に鞭打ちの代償を書いていたのを見た、京西では強盗が人を殺しその敝衣を奪ってわずか数百銭の値打ちだった、盗鋳の利は数倍以上にもなり、湖山の絶所には凶魁が集まり鑪冶が日々増え、平時は鋳銭し急には盗をなす、民間の銅鉛の器はことごとく大銭に化けてしまう、どうしてこれを禁じられようか」と述べた。
  • また「祥符・天聖年間、牧馬は十余万に達したが、その後言者が天下無事で虚費すべきでないとし8監を廃した、しかしなお秦・渭・環・階・麟・府・文州・火山・保徳・岢嵐軍で毎年馬2万200匹を市い京畿・塞下の欠を補っている、西鄙の用兵以来4年、牧される馬はわずか3万に過ぎない、馬が少なく地が閑になった坊監は確かに廃すべきだが賊が平らげば馬が戻る以上廃すべきでない、今河北・河東・京東西・淮南は皆丁壮を籍して兵とするが、民に戦馬を1頭飼わせれば2丁を免除するとすれば緩急に備えができ国馬も繁殖する」と述べた。

枢密副使から晩年

  • 慶暦年間、杜衍の副として河東を宣撫し、まもなく端明殿学士として審刑院を知り、江西転運使が属州に市米・塩鈔の際毎百緡につき3分の1の貼納銭を課していた件で、吉州通判の李虞卿が賄賂を受けて貼納を免除した罪が発覚し大理は「枉法」として論じようとしたが、度は「枉法とは典憲において阿曲があったことを言う、虞卿が違反したのは転運使の移文に過ぎない」と述べ虞卿は死一等を減じられた。
  • 帝がかつて用人において資と才どちらを先んずるべきか問うと、度は「承平の時は資を用いるが辺事未平の今は才を用いるべきだ」と答えた。度は当時翰林にあってすでに7年になり、朝廷はまさに用兵中だったためこう答えた。諫官の孫甫は「度の発言はもとより自らの起用を求めるものだ」と論じたが、帝は輔臣に「度は侍従に15年あって幾度も天下の事を論じたが未だ私を及ぼしたことはない、甫はどこからそのような話を得たのか」と諭した。まもなく工部侍郎・樞密副使に抜擢され、周世宗が驍健を募り朝出の羣盗が夕には宿衛を備えさせた故事、太祖が猛士を閲して騎軍に実らせた故事を挙げ、河北・河東・陝西で就糧の馬軍から禁旅の闕を補うべきだと請うた。また契丹がかつて盟約を破ったので予備を怠らないよう述べ「慶暦兵録」5巻・「贍邉録」1巻を上呈した。翌年参知政事を拝した頃、春の旱に伴い中書舎人に降格されたが月余りで復官した。
  • 2年後、衛士の変事が起こり事は宦官の楊懐敏に連座し、樞密使の夏竦は御史と宦官を共に禁中で鞫することを求めたが、蔓延を防ぐ意図があるとされたため、度は「宿衛に変事があれば社稷に関わる、これを忍べば何を忍べぬものがあろう、外台に付して徹底的に調べるべきだ」と帝前で争論したが、仁宗は竦の言に従った。度はこれで参知政事の職を解くことを求め紫宸殿学士兼侍読学士に罷免された。御史の何郯が「紫宸は官称に合わない」と述べ観文殿学士・通進銀台司判事に改まり尚書都省を判じ尚書左丞に再遷し卒した。吏部尚書を贈られ諡は文簡。
  • 度は淳質な性格で威儀にとらわれず、10余年住まいに姫侍を置かなかったが議論を好み、経筵にいること久しく帝は常に学士と呼び名を呼ばなかった。かつて蓍亀占応(卜占)について問われた際「卜筮は聖人が行うものとはいえ結局は一つの技に過ぎない、古の治乱を鑑みる方がよい」と答えた。また欹器(傾く器)を示され「朕は天下に臨むのに中正の道をもってしたい」と述べた帝に対し「臣らもまた傾いたり満ちたりしないことで陛下にお仕えしたいと願います」と答え太宗がかつてこの器を作り真宗も論を著したことを奏上、帝は後述を製して度に賜った。度は邇英聖覧10巻・亀鑑精義3巻・編年総録8巻を著し、詔を奉じ諸儒を率いて武経総要40巻を編纂した。子の諷は集賢校理。