出自と初任
- 夏侯嶠、字は峻極。先祖は幽州の人。高祖の夏侯秀は済州鉅野の鎮遊奕使となりそこに家を構えた。父の夏侯浦は梁の開平年間、明経により棣州録事参軍に至った。嶠は幼くして学を好み弱冠にして詞賦で名を知られ、周の宰相の李榖に招かれ門下に入り、また西京留守の向拱に依り伊陽令を摂した。拱が安州に移ると録事参軍を摂させた。
- 太平興国初年、進士甲科に挙げられ大理評事・興州通判に補せられ、右賛善大夫に累遷、太原征伐に従い河朔で芻糧を督した。殿中丞に遷り邠州通判、任期満了で監察御史を拝し興元府通判に進み殿中丞に進んだ。雍熙2年、召還され便殿で対面した際、太宗は有司に「この人物は朕が自ら材行を知っている、奏擬は不要だ」と語り即日左補闕・直史館に改め緋魚を賜った。王師が辺境を守る際、伝使で河間の糧道を督し莫州を知り、月余りで洪州に転じ起居郎に改まった。
- 真宗が襄邸(東宮)にあった頃、太宗は朝士の謹厚な者を選んで官属としたため嶠は召されて翊善となり金紫を賜り直昭文館を加えた。真宗が京府尹となると推官を兼ね司封員外郎を加え、東宮が建てられると再び中舍を兼ね工部郎中に遷り、真宗即位後、給事中を拝し審刑院を知り数月で樞密院副使に抜擢された。咸平元年、戸部郎中として罷免され、2年、講読の職が新設され嶠を翰林侍読学士に任じ、楊徽之の卒後、秘書監を兼ねさせた。
江南巡撫と晩年
- その秋、江浙で饑饉が起き江南巡撫使に任じられ、通過する所で刑訟を疏理し耆老を存問し寛簡を旨とした。人々はこれを便とした。使いから戻り民を病ませる20余の事を上奏し即座に釐革(改革)が詔された。また吏部選事を判じた。嶠は琴を弾じるのを善くし荘老の書を読むことを好み淳厚謹慎で官にあって過失がなく、真宗は特にこれを愛重し多く諮訪し「善人」と評した。もとより道を好み養生に留意し若い頃から病が少なかった。
- 景徳元年5月、選人として崇政殿で対面を待つ間に急に中風で眩暈を起こし急いで金丹・上尊酒を取り寄せて服させ、肩輿で邸宅に戻り内侍を遣わして内外の名医に診させたが夕方に卒した。享年72。詔で兵部尚書を贈られ賻賜のほかに白金300両を増賜し葬儀を録し、子の大理寺丞の晟を太子中舍に、孫の恭を奉礼郎に、姪孫の蔚に同学究出身を賜った。嶠は近侍にあって恩遇甚だ厚く、卒後数月、畢士安が宰相になると座を撫でて「夏侯君がいたなら私はこの位に先んじなかっただろう」と嘆じた。文集15巻がある。大中祥符初年、晟は漢武帝の封禅図・金匱玉匱の石碭石距の状を描き注釈を添えて上呈し、帝は覧てこれを善しとした。晟は駕部員外郎に至り、恭は太子中舍に至った。