宋史卷二百八十七 列傳第四十六 宋湜
宋湜(字は持正)、京兆長安の人。太平興国五年に進士に及第し、知制誥・翰林学士・樞密副使を歴任した文人官僚。年五十一で病没した。兄の泌や温舒の子沆・澥・濤ら一族にも進士登第者が多く、文名を馳せた。
生涯
宋湜、字は持正。京兆長安の人。曾祖の擇は牟平令、祖の賛は万年令、父の温故は晉の天福年間の進士で左補闕に至り、弟の温舒もまた進士で職方員外郎に至り、兄弟ともに当時名声があった。湜は幼くして聡明で早くに父を失い、兄の泌とともに志を励まし学問に篤く、母に孝を尽くした。温舒が耀州を典じた際、湜は随行し牋奏を代作して言葉は敏捷で麗しかった。温舒はその背を叩いて「この子は真に国の器だ、私の兄がこれを見ずに終わるのが惜しい」と言った。太平興国五年、進士に及第し将作監丞を解褐で授けられ梓州通判・榷塩院を務め、まもなく右賛善大夫に遷った。宋凖がその文を推薦し著作郎・直史館を拝し緋衣を賜った。雍熙三年、右補闕・知制誥として王化基・李沆とともに命じられ、白金五百両・銭五百万を賜り、戸部員外郎を加え蘇易簡とともに知貢挙を務めた。まもなく刑部を判じ金紫を賜った。淳化二年、妖尼道安が大理の断獄が不当であると訴えた事件に連座して均州団練副使に降格された。当時母は老いており、湜は自宅に留まって奉養し汝州に移った。王禹偁とともに召されて礼部員外郎・直昭文館に入り、五年、職方員外郎として再び知制誥を務め、集賢院を判じ銀台通進封駁司を知り、至道元年、翰林学士として審官院・三班を知り、あわせて国史を修め昭文史館事を判じ兵部郎中を加えられた。真宗即位後、中書舎人を拝し、母の喪により起復し、咸平元年冬、給事中に改まり樞密副使を充てた。真宗が北巡した際、大名に至ろうとして扈従軍を行陣に列し、帝自ら鎧甲を着け中軍を率い、諸王・樞密も介胄をつけて従うよう命じられた。湜は王顯とともに後陣を分けて押し、駐蹕して数日、しばしば便殿に召されて対応していたが、方に奏事する折に病が発し地に倒れ、内侍が扶けて出させ太医が診視した。見舞いが相継ぎ、病が篤いことが聞こえ、翌年正月、真宗が自ら見舞い先に京師へ帰ることを許して衾褥を賜り「これは朕がかつて用いたものだが、たとえ古びていても道中の寒さを防ぐには十分である」と述べ、さらに内侍を遣わして護送させ供帳を澶州まで届けさせた。卒した。年五十一。廃朝され、吏部侍郎を贈られ、子の綸を太祝、純を奉礼郎とし、弟の某を光禄寺丞、湛を大理寺丞とし、姪孫の選を同学究出身とした。真宗が再び河朔に行幸した際にこれを追悼し、刑部尚書を加贈し諡は忠定とされた。湜は風貌が秀整で懐が深く、器識も広遠で学を好み文詞に美しく、談論・飲謔にも優れ音律に通じ奕碁に妙を得て筆法は遒媚で書帖が出るたびに人々がこれを伝写した。後進を引き立てることを好み、また他人の急を助けることを好み、当世の士流はこぞってこれを尊仰した。文集二十巻がある。
宋湜の兄・泌、及び一族
湜の兄泌は太平興国二年の進士で起居郎・直史館・越王府記室参軍に至った。温舒の三子は沆・澥・濤。沆は剛毅で兵を語ることを好み、太平興国五年の進士で左正言・京西転運使・度支判官を歴任した。淳化二年、呂蒙正の罷相に連座して宜州団練副使に貶められた。太子中允に起用され如京副使に改まり、咸平年間、梅詢とともに西京に遣わされ安撫使とされたが赴任前に環慶路都監に罷められ、知環州張従古とともに勝手に兵を発して敵を襲い部署と謀を交えず、士卒の死傷者が出たことに連座して文思副使・京西提点刑獄に降格され卒した。澥は清節を守り長安に住み仕えず、种放・魏野と交遊し多くの詩を唱酬した。濤は端拱二年の進士で殿中丞・襄城県知事を歴任し政績によって聞こえ緋魚を賜った。塩鉄判官を歴任し累遷して監察御史となり虢州を知った。純と泌の子緯はいずれも殿中丞に至った。