宋史卷二百八十七 列傳第四十六 楊礪

生涯

楊礪、字は汝礪。京兆鄠の人。曾祖の守信は唐の山南西道節度同平章事で、もとは宦官復恭の仮子であった。祖の知禮は後唐の均州刺史。父の仁儼は蜀に入り王氏に仕えて丹稜令となり、蜀が平定されると渭南主簿を補し累遷して永和令となった。礪は建隆年間、進士甲科に挙げられたが、父の喪に水漿を絶って数日服し、服を除いた後は禄が母を養うに足りないとして仕官の意志なく閑居していたところ、郷里の旧知が書を送って敦諭したのでようやく出仕した。鳳州団練推官を解褐で授けられ、一年余りで再び母の病により官を棄てた。開宝九年、闕に詣で書を献じ学士院での試験を詔され、隴州防禦推官を授けられ光禄寺丞に遷った。母の喪に服し職に復し、しばらくして祕書丞に転じ屯田員外郎に改まり鄂州を知り、善政をもって聞こえた。端拱の初め、真宗が襄邸にあった頃、庫部に遷り記室参軍を充て金紫を賜った。当初、広順年間、周世宗が澶州を節制していた際、礪は文を奉じてこれに謁見し数日館接された。世宗が朝に入ると礪は僧舎に泊まり、古い衣冠の者が現れて「あなたも従いなさい」と告げる夢を見た。礪はそれに従って行くと、宮衛が人間のものとは思えない壮大さで、殿上の王者は圭を秉って南面し合わせて三十余人であった。礪は殿に上りこれに謁すると最上位の者の前に桉があり簿録に人の姓名が記されていた。礪は自分の名が首位にあるのを見て休咎を尋ねると、王者は「私はあなたの師ではない」と言い、一人を指して「これが来和天尊である。いずれあなたの主となる」と告げた。その人物は笑って「これより四十年後、あなたは功成り名も顕れるだろう」と言った。礪は再拝し、夢から覚めるとこれを記した。礪はもとの名を勵といったが、籍に礪と作られたことからそのまま改名した。この時に至り命を受けて藩府に謁見し、帰って子に「私は今、襄王(真宗)を見たが、その儀貌はまさに夢で見た来和天尊であった」と語った。水部郎中に遷り、真宗が開封尹であった頃、礪は推官を務めた。真宗はかつて礪に何年に及第したか問うたが、礪は唯々として答えなかった。後にその科挙が首席であったと知り、問わなかったことを悔い礪を科名によって自慢しない人物として重んじた。皇太子となる際に右諭徳を兼ね、度支郎中に転じ、即位後給事中に拝し吏部銓を判じた。まもなく召されて翰林学士に入り、咸平の初め知貢挙を務め、まもなく工部侍郎・樞密副使を拝したが、二年で卒した。年六十九。真宗は深く悲しみ宰相に「礪は忠実で清廉苦節に励んでいた、まさに任用しようとしていた矢先にこのように亡くなってしまうとは」と語り、雨の中でその喪に臨んだ。礪の住まいは狭い路地の借家にあり、輿に乗ったまま進むことができず、その第まで歩いて至り長く嘆き悲しんだ。廃朝の上、兵部尚書を贈られ中使が葬儀を護送した。礪の文章は繁多だが師法がなく、詩一題ごとに数十篇に及ぶこともあった。翰林で制誥を作る際も奇怪で見る者は失笑した。文集二十巻がある。子の嶠は祠部郎中に至り、嶧は太常博士に至り、峭は太子中舎に至った。少子の嵎は至道の初め張庶凝とともに真宗の儲邸の書籍を校訂し、真宗即位後いずれも進士出身を賜り直史館となった。嵎は祠部郎中に至り、庶凝は太常丞に至った。