宋史卷二百七十六 列傳第三十五 王繼升
冀州阜城の人。太宗の藩邸に仕え信任された腹心の一人。陳洪進の献土後は泉州兵馬都監として叛民を鎮圧し、のちに水陸発運の事務を統括した実務官。端拱初に没した(享年64)。性質純質謹愿と評された。
王繼升
- 冀州阜城の人。性質純質で謹愿であった。太宗に藩邸で事え、太宗はこれを信任した。即位後、供奉官に補し累遷して軍器庫副使に至る。陳洪進が漳泉の地を献じた際、継升を泉州兵馬都監とした。折しも遊洋洞の民1万余が叛いて泉州を攻めた際、継升は密かに精騎200を率いて夜襲しこれを破り、その首魁を械送して闕下に送り、残党を悉く平定した。召還されて軍器庫使に遷り順州刺史を領し諸道陸路発運事を知る。
- 雍熙4年(987年)、諸道水陸発運を合わせて1司とした際、継升は刑部員外郎董儼と共にその事を掌り称職とされた。まもなく右神武軍将軍に遷る。端拱初、本州団練使を改領。3月後に没した、享年64。太宗は大いに嗟悼し洋州観察使を贈り葬事は官給とした。子の昭遠。
王昭遠
- 昭遠は形質魁偉で色黒く、継升はこれに「鉄山」と名付けた。膂力があり騎射を善くした。若い頃、山に入り鷹鶻を捕えていた際、澗水が突然十余丈も増水し、昭遠は大樹に登って夜を明かし難を免れた。かつて氷の張った河を渉り2人が陥ったのを傍らからこれを援け出したが、昭遠は神色自若で郷里の悪少と交わることを好んだ。ある日、衆が里神を祀った際、たまたま昭遠が至ると博打の道具を渡され「そなたが他日もし節鉞を得るなら、これを投げて占ってみよ」と言われ、昭遠が一擲すると6つの目がすべて赤だった。
- 南へ京師に遊び太宗に晋邸で事え、特に親遇を被り常にその小字で呼ばれた。即位後、殿前指揮使に補し次第に遷って都知に至る。太原征討に従い先登し流矢を受け血が甲縷を潤したが戦をますます激しくした。折しも劉継元が降ると城門を守り兵仗を籍させた。また范陽征討に従い多くを擒獲し散員指揮使に超進された。涪王が房陵に遷された際、禁衛の諸校楊均・王栄らは依附により譴責されたが、昭遠のみ関与していなかったため太宗は忠と見なした。
- 再遷して東四班都虞候、殿前班都指揮使に転じ寰州刺史を領する。馬歩軍都軍頭に改まり、詔で伝を乗って鎮定高陽関を鎮し兵を募って契丹に備えさせられ、また冀州駐泊都監となる。まもなく沢州団練使・洺州都部署を授かる。太宗はしばしばその能を称え急使に備えるべきとした。端拱初、召されて殿前都虞候となり勤州防禦使を領す。有司に綾錦院を公署とするよう命じ、地を掘ったところ山の形をした鉄が出た。ある人はこの地がすなわち「鉄山」であった昔の陣営だと言い、昭遠の幼名との一致を聞いた人々は不思議がった。太宗はかつて草書で紈扇に古詩を書いて諸将に賜った際、意には多く比諷があったが、昭遠への賜は特に厚かった。
- 端拱2年(989年)、沙州観察使を領し、再び并代副都部署となる。至道中、李継遷が西鄙を騒がし霊武への糧道を絶った際、昭遠を霊州路都部署とし25州の芻粟を護送させ、ついに霊武に達し継遷は敢えて犯さなかった。真宗即位後、定州行営都部署に徙り、まもなく保静軍節度使を拝し天雄軍都部署・知府事を充てる。咸平2年(999年)、知河陽に移り数月後に没した、享年56。当時車駕は大名にあり廃朝し太尉を贈り諡は恵和。中使が葬を護った。
- 昭遠はやや書を知ったが性質は吝嗇で、赴任地では善政がなかった。母弟の昭懿もまた晋邸に事え捧日都虞候に至る。弟の昭遜は西京作坊使。当初、祖母の郭氏がかつて昭遠の母に向かい昭遠を指して「この子には貴相がある、他日必ず公侯に至るだろう」と言い、昭懿を指して「この子は俸銭が2万を越えると耐えられなくなるだろう」と言ったが、果たしてみな言葉通りとなった。昭遠の子の懐普は9歳にして太宗に事え西京左藏庫使・平州刺史に至る。懐一は供備庫副使、懐正は内殿承制、懐英は内殿崇班。