宋史卷二百七十六 列傳第三十五 張平
青州臨朐の人。若くして地方官に仕え、秦王廷美の疑いを受けて一時退けられたが、後に太宗に用いられ市木・造船・漕運の実務官として重用された。陽平の木材輸送体制を整備し官費を大幅に削減、晩年は塩鉄使を務めたが旧時の不正発覚を憂えて病没した(享年63)。史伝を好み蔵書家でもあった。
張平
- 青州臨朐の人。弱冠にして単州に寓居し刺史羅金山に依った。金山が滁州に移ると平を馬歩都虞候に署した。太宗が京兆尹となりその邸を置いた頃、秦王廷美が貴州を領するに及び再び親吏に署されたが、数年後、平が府中の銭物を匿していると訴える者があり、秦王が太宗に述べて鞫させたが無状であった。秦王はますます平を嫌いついに去らせた。太宗はその無罪を憐れみ徐帥高継冲に属させ、継冲は鎮将に署した。平は嘆いて「わが命は蹇(つたない)だが、後で必ずしも福とならぬわけではあるまい」と述べた。
- 太宗即位後、召されて右班殿直に補し市木を監す。秦・隴が平定されると制度が悉く一新され、都務を建てて水陸の費を計り、春秋二時に巨筏を連ねて渭から河に達し砥柱を経て京に集めさせた。1年余りの間に良材は山積し太宗はその功を嘉して供奉官に遷り陽平都木務兼造船場を監させた。旧官は舟を造る際、河流が湍悍であることに備え1舟ごとに3戸を調して守らせ、歳役の戸数は数千に及んだが、平は池を穿ち水を引いて舟をその中に繋ぎ、以後は民を調することがなくなった。
- 寇陽抜華という者が関輔の間を往来して患いをなすこと積年に及び、朝廷は内侍に数州の兵を督させて討たせたが克てなかった。平は好辞をもって人を遣わしこれを説得し、ついに帰順した。崇儀副使に改まり引き続きその務を領すること9年、計るに省いた官銭は80万緡に及んだ。雍熙初、召還され同知三班事、如京使に遷る。雍熙3年(986年)、西上閤門使に改まりわずか3月でまた客省使に改まる。雍熙4年(987年)、王明に代わり塩鉄使となる。
- 平が陽平署を掌ること積年、この秋、陝西転運使李安がその旧に陽平で姦利を働いたことを摘発したことを聞き、憂恚のうちに病を得て没した、享年63。廃朝し右千牛衛上将軍を贈られ官が葬具を給した。平は史伝を好み、微賎な時分に異書に遇うと終日耽玩し衣を脱いでこれと替えたこともあった。貴くなってからは書を数千巻集めた。
- 彭門にいた頃、州吏に平を侮る者が数人あったが、後にみな罪に問われ京窯務に配された。平の子の従式がたまたまその役を監督し彼らを見て平に語った。平は自邸に召して酒饌を設け労って「公らは不幸にもこの患いに遭った、決して以前のことを気にするな」と述べ緡銭を与え、従式にもよく面倒を見るよう戒めた。まもなく赦に遇い原された。時人はその寛厚を称えた。従式は太宗の藩邸に事えて累官し文思使に至った。
- 次子の従吉は蔭により殿直に補し供奉官に転じ知宜州となり、しばしば溪蛮を破り転運使堯叟がその状を上奏、累遷して内殿崇班閤門祗候に至った。在任すること8年、代わって還り如京副使となる。咸平中、知環州となり、かつて宋沆と共に西夏を襲って小さく衄したことがあり、部署の張凝がその専断を表し内殿崇班に責め降された。まもなく知澧州として旧秩に復す。景徳4年(1007年)、宜州軍校陳進が叛くと、副漕利用を廣南東西路安撫使として兵を率いて討伐した。象州大鳥砦に次いで賊と戦い、進は先鋒郭志言に刺されて城に入った。首60級を斬った功で荘宅副使に改まったが、帰らぬうちに没した、享年49。