宋史卷二百七十六 列傳第三十五 孔承恭

字は光祖。京兆万年の人。唐の名家の子孫で、5世祖の戡から父の莊まで代々進士に及第した家柄。詩才により立身を図ったが太祖の怒りを買い一時免官、太宗即位後に旧官へ復した。酒麹の増課や大理の獄議で功をあげ、九寺三監の地位向上を図る太宗の詔で太常少卿に任じられた。仏教に篤く俸禄の多くを僧への施しに費やした清廉な官であった。

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孔承恭

  • 字は光祖。京兆万年の人。唐昭宗の東遷にあたり一族がこれに従い河南に籍を占めた。5世祖の戡は『唐書』に伝がある。戡の孫の逈は莱州刺史、逈の子の昌庶は虞部郎中、昌庶の子の莊は後晋に仕え右諫議大夫となった。戡から莊に至るまでみな進士に及第。承恭は莊の子である。門蔭により秘書省正字を授かり、温・安豊二県主簿を歴任。
  • 当時、王審琦が寿春を節制した折、承恭が名家の子であるとして節度推官を摂させ、府が罷されると鄭州録事参軍に調され、大理寺丞として入る。「宮詞」を献じ意を託して進を求めたが、太祖はその引喩の不適切さに怒り、所居の官を免じ田里に帰らせた。太宗即位後、赦により旧官に復す。
  • 当時、酒の榷が初めて行われ承恭に西京酒麹を監させ、歳々課を6千万増やした功で大理正に遷る。獄を議して平允であったため庫部員外郎に抜擢し大理少卿事を判す。屯田・兵部の両郎中を歴任し京朝官の課第を同考。端拱3年(990年)、詔が下り「九寺三監は国の羽儀・制度・声名の在るところ、それぞれ副貳を有し、その司存は品秩がもとより高く職任は特に重い、郎吏の遷授はこれを旧章とする。近来、縉紳の流は台閣を自ら誇り散地と見なす向きがあるが、これは全く道理に合わない、朕はこれを振起することを自らから始めよう」として、兵部郎中孔承恭を太常少卿、魏羽を秘書少監、戸部郎中柴成務を光禄少卿、魏庠を衛尉少卿、張洎を太僕少卿、呂端を大理少卿、臧丙を司農少卿、袁廓を鴻臚少卿、工部郎中張雍を太府少卿とし、また屯田郎中雷有終を少府少監、虞部郎中索湘を将作少監とした。時に裴祚・慎従吉・宋雍がすでに少卿であった者はみな東宮官に改められた。
  • 詔で承恭は左散騎常侍徐鉉と道書の刊正を命じられる。まもなく病により解官を求め、かつて若い頃嵩少の間を遊び風土を楽しんだため居を卜したいと言上した。上は召見しその羸痩を哀れみ御薬を出して賜い、将作監致仕を授けた。子の玢は同学究出身で登封県尉に補し、就いて禄養させようとしたが果たさぬまま没した、享年62。
  • 承恭は若い頃疎縦であったが長じて節を折って自ら励んだ。かつて上疏し州県の長吏に耆老を訪ね民間の疾苦や吏治の得失を尋ねさせることを請い、また令文の「賎は貴を避け少は長を避け軽は重を避け去は来を避く」に基づき、京兆と諸州の要害の地に木牌を設けその字を刻み違反者は律に照らして論ずることを詔で行わせた。特に仏を奉じ蔬食を多くし、得た俸禄の大半を僧に施した。かつて上に殺人をしないよう勧め、また征戦の地に寺を修め僧尼を普度することを請い、多くの人がその迂闊さを言ったという。