宋史卷二百七十四 列傳第三十三 翟守素

済州任城の人(?–992年、享年71)。四朝に歴仕し内職にあること50余年、蜀平定後の経略や梅山洞蛮討伐で功を挙げた。寛仁な人柄で赴任地はいずれも治績があったと評される。

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翟守素

  • 済州任城の人。父の溥は後晋左司禦率府率。守素は父の任により殿直に補す。後漢・後周を歴仕して供奉官に遷り承天軍使を領す。乾徳中、引進副使となり王全斌の蜀討伐に従い、往来して軍事を告げる役を務めた。蜀平定後、両川の余寇がまだ絶えず騒乱を招くことを慮り、再び守素を蜀に入らせ諸郡を経略し兵を分けて防遏させ、判四方館に抜擢される。
  • 開宝中、麟府が内属した際、戎人が地を争って乱を招いたため守素に馳せて撫諭させ、守素はその曲直を弁じ戎人は心服した。太原征討に従い、海州刺史孫方進が汾州を囲んだ際、守素がその軍を監し引進使に転じる。開宝3年(970年)、剣南十州都巡検使となり東上閤門使郭崇信を副とし、守素に銭500万を賜う。入謝の日、再び岐帥符彦卿への官告使を命じられたが、守素は「賜賚が優厚過ぎて再び当たれない」と辞したが、上は許さなかった。
  • 開宝9年(976年)、呉越国王銭俶が来朝した際、守素に諸司の供帳を護らせ郊外で迎労させ、并塁がまだ下らないうちに詔で洺州防禦使郭進と共に兵を率いて深く境に入らせ、禾稼を蹈藉して守素は多くを虜獲した。太宗即位後、客省使に遷り憲州刺史を領す。
  • 太平興国3年(978年)夏、河が滎陽で決壊した際、詔で守素に鄭州の丁夫1500人と卒1000人を発し護塞させる。この秋、梅山洞蛮が険を恃んで叛乱した際、守素に諸州の屯兵を率いて撃たせる詔が出た。折しも霖雨が旬を越え弓弩が緩んで用いられなかったが、翌日交戦しようとした際、守素は一夜で木を削って弩を作り、明け方賊が至るとこれを交射して賊はついに敗れた。勝ちに乗じて逐北し巣穴を悉く平定した。先に数郡の大吏・富人の多くが賊帥包漢陽と交通していたが、その書信数百封を得た際、守素はこれをすべて焼き人心の動揺は収まった。
  • まもなく銭俶が浙右の地を献じた際、詔で守素を両浙諸州兵馬都監とし諸郡を安撫させると人心は大いに喜んだ。知杭州となり歳が満ちると西京巡検使となる。秦王廷美が事に連座して私第に帰された際、守素は権知河南府兼留守司事となる。折しも洛陽は旱で食に窮し盗が多かったが、守素が至ってからは次第に寧息した。まもなく商州団練使に遷る。
  • 雍熙2年(985年)、知延州に改まる。劉廷譲が君子館で敗れて以来、河朔諸州の城壁の多くが崩れていたため、雍熙4年(987年)、詔で守素は田仁朗・王継恩・郭延濬と分路して按行し、諸州鎮兵を発して増築を護らせた。白金30両を賜い天雄軍兵馬鈐轄として留め、知大名府から知潞州に改まる。折しも代北方田が建てられ、代北方田都部署・并州兵馬鈐轄となり夏州に屯し、知鳳翔府に改まる。
  • 淳化中、夏帥趙保忠がその弟継遷が戎人を誘って寇し援軍を求めていると上言した際、詔で守素に兵を率いて再び夏州に屯させ、まもなく石州に徙る。老病により本郡への帰還を上疏で求め従われた。淳化3年(992年)、没した、享年71。守素は4朝に歴事し内職にあること50余年、性質謹慎で寛仁で衆を容れ、赴任地はどこも治績があった。大辟の獄を断ずる際は罪状明白でも必ず僚寀に遍く諮り一致してから決した。属吏に過ちがあれば面折せず、必ず公宴の折に類似の往事を引いてこれを言い微かに警めた。新進の後生の多くが節帥に至る中、守素は久しく務めながら昇進せず、いささかも不満の意を見せなかった。時論はこれを高く評価した。