宋史卷二百七十四 列傳第三十三 田欽祚
頴州汝陰の人。太祖・太宗二代に仕え蜀征討・北漢征討・契丹との戦いに従軍し武功を重ねたが、性格剛戻で同僚との不和が多く、共に戦った郭進を自死に追い込んだと伝わる。
年表(6件)
- 乾徳2年964年蜀討伐で北路先鋒都監となる
- 乾徳4年966年羅彦瓌に従い并の寇を破り、功により西上閤門使に遷る
- 開宝2年969年何継筠と共に石嶺関で賊兵を破る
- 開宝3年970年契丹の中山侵入を定州路兵馬都部署として遂城で防ぐ
- 太平興国4年979年太原征伐に従うが主帥郭進と不和し、進は自ら縊死する
- 太平興国6年981年房州団練使に改まる
田欽祚
- 頴州汝陰の人。父の令方は後漢虢州団練使の帳下伶人。靖辺庭の妻に美色があり、令方はこれを私通した。辺庭は忿懣に耐えず、折しも陝西で三叛が連衡し関輔の間で人情が大いに乱れた際、辺庭は徒党数人を率いて夜に州廨に忍び込み令方を殺害し、郡民を掠めて趙思綰の下に投じ、潼関に至って守関の使者と戦い敗散した。朝廷は欽祚を殿直に録し供奉官に改める。
- 後周世宗の淮南征討に前軍都監として従う。関南征討の従軍から還った際、澶淵で河が決壊したのを塞ぐにあたり欽祚に禁兵を領して護役させ、澶州城の督治も命じられた。淮人が高密刺史王万威を攻めて救援を求めた際、欽祚に州兵を領してこれを救援させ、囲みは解けた。
- 宋初、閤門通事舍人に遷る。乾徳2年(964年)冬、蜀討伐で北路先鋒都監となり伝を乗って往来し機事を宣達、孟昶が降を捧げて奏を馳せると西上閤門副使に遷る。蜀の土寇が乱れた折、欽祚を遣わして師を率いて討ち平らげさせた。乾徳4年(966年)春、并の人が楽平を寇し、羅彦瓌に従いこれに拒んだ際、独りその部下3千人で寇を破り副将1人を擒え俘獲多数、功により西上閤門使に遷る。
- 開宝2年(969年)、何継筠と共に石嶺関で賊兵を破り、賀州刺史を領し判四方館使を兼ねる。開宝3年(970年)、契丹が中山を寇した際、欽祚は定州路兵馬都部署となり遂城で戦い旦から晡まで殺傷多数、欽祚の馬は流矢に中り倒れたが騎士王超が馬を授け軍を振るい直し、敵は囲みを解いて去った。朝廷が江表討伐を議した際、欽祚に偵察させ、還って奏したことは意に叶い、江南で得た宝貨3千万を悉く賜った。
- 興師にあたり欽祚は曹彬・李漢瓊と共に騎軍を率いて先に江陵に赴くよう命じられ、就いて昇州西南路行営馬軍兼左廂戦棹都監となり呉軍万余を溧水で破りその主帥李雄ら5人を斬り裨将2人を擒え、金陵を囲んで南面攻城部署となる。平定後、功により汾州防禦使を加領。太平興国初、引進使に遷り晋州都鈐轄となる。太原の驍将楊業が衆を率いて洪洞県を寇した際、欽祚はこれを撃破し首千余級を斬り馬数百を獲た。太宗は白金5千両を賜り宅を市わせた。
- 太平興国4年(979年)、太原征伐に従い前鋒騎兵を護って石嶺関に屯し契丹を扞ぐ。欽祚は性質剛戾で気を負い忤犯するところが多く、主帥郭進とは折り合いが悪く、進の戦功が高いことをしばしば欽祚に凌がれ心が耐えられずついに自ら縊死した。当初、賊兵が突然至った際、進が出戦しても欽祚はただ壁を閉じて自守し、賊が去っても追わなかった。受けた月奉の芻粟を多く販売して利を規ったことが部下から訴えられ、睦州団練使に責め降される。車駕北巡にあたり幽州西路行営壕砦都監となる。太平興国6年(981年)秋、房州団練使に改まり、年を越えて柳州に改まる。嶺外は瘴気が多く病を患い、たびたび生還を乞う表を奉った。
- 上はこれを憐れみ郢州団練使に遷す。在郡2年で入覲した際、欽祚は上に涙ながらに願い出て銀夏綏宥都巡検使に任じられ、まもなく召還される。折しも幽州征討にあたり欽祚は宣徽南院使郭守文と共に排陣使を命じられたが、欽祚はすでに病を得ていたが受詔を大いに喜び、一夜にして没した。欽祚は性質陰狡で特に儒士を好まず、同列を狎侮することを好んだため人々に嫌われた。子の承誨は供奉官・閤門祗候に至り、承説は崇儀副使に至った。