丁徳裕
- 洺州臨洺の人。父の審琦は彰武軍節度使。後周広順初、蔭により供奉官に補す。宋初、通事舍人・西上閤門副使を歴任。建隆3年(962年)、東上閤門使に遷り慕容延釗に従い荊湖を平定、功により引進使を授かる。また潘美・尹崇珂と共に彬州を克し、客省使に遷る。乾徳5年(967年)、内客省使に遷る。
- 成都平定直後、群盗が大いに起こり、西川都巡検使に用いられ、閤門副使張延通と共に率師してこれを討ち、賊帥康祚を擒えて市に磔にし、1年余りでその党を平定し尽くした。延通とは折り合いが悪く、朝に帰ってその隠事を告発したため延通は棄市に処された。また転運使・礼部郎中李鉉が酔中に指斥に渉る言をしたと奏したところ、太祖の怒りにより急ぎ鉉を召して御史に案じさせたが、鉉は「徳裕は蜀にいた折しばしば事を請求し、これを多く拒んだ」と述べ、みな証拠があった。御史はこれを聞き太祖は悟り、鉉の酒失のみを罰し左賛善大夫に責め降した。まもなく徳裕もまた知潞州として出された。
- 江南征討にあたり徳裕は常州行営兵馬都監として遣わされ、呉越の兵を率いて主帥を助けて進討させた。常州平定後、州事の知事権を任され、また昇州東南路行営都監に改まり、潤州の軍5千余を城下で破った。潤州を抜くに及び、常・潤等州経略巡検使に移された。徳裕は傾険で衆から憎まれ、勢いを恃んで剛狠に振る舞い士卒を恤まず、貨を貪って厭くところがなかった。呉越の人々はこれに苦しみ、銭俶がその事を奏したため房州刺史に貶され没した。