宋史卷二百七十四 列傳第三十三 張延通

張延通

  • 潞州潞城の人。父の彦成は後周右金吾衞上将軍。延通は性質頴悟で才幹があり、蔭により供奉官に補す。宋初、通事舍人を歴任し東上閤門副使に遷る。開宝中、西州兵馬都監となる。太祖は蜀の寇がまだ平らかでないとして、内客省使丁徳裕・引進副使王班・内臣張嶼と共に兵を率いて蜀部に屯させた。徳裕はかなり専恣であり、延通が面と向かってその短所を質すと徳裕はこれを恨み、また張嶼とも折り合いが悪かったため延通が両者を和解させようとしたが、徳裕は延通と嶼が党を組んでいると疑い、ますます不快とした。
  • 太祖の太原親征にあたり、行在から来た使者が太祖の盛暑の中での躬冒矢石・労頓の様子を詳しく語った折、延通は「主上がこれほど勤労されているのに、我らが日々安楽を享受しているのは、言わずとも心が安まらない」と語ったが、徳裕は答えなかった。張嶼が先に帰闕すると太祖は厚く賜与し、延通・徳裕が続いて至ると延通を召して顧問したが徳裕への待遇はやや薄かった。徳裕はますます疑懼を深め、ついに延通が衆を対して指斥に渉る言をなし多くの不法事があり嶼を党としていると奏した。太祖は怒って延通・張嶼・王班を収して御史台に下し鞫問させた。
  • 延通らは引伏したが、太祖は初め赦そうとした。しかし引問の際、延通は抗対して不遜であったためついに斬に処された。嶼・班および内臣王仁吉はみな杖脊され、嶼は沙門島に配流、班は許州、仁吉は西窰務にそれぞれ配された。開宝2年(969年)のことであった。