盧懷忠
- 瀛州河間の人。若くして膂力があり騎射を善くした。後漢乾祐初、河中に寓居していた折、李守貞の叛乱に遭い、後周太祖がその城を囲むと、懐忠は夜に城を踰えて出て攻取の便宜を陳べ、河中平定後に供奉官に補せられた。慕容彦超討伐に兖州へ従軍。後周顕徳初、沂州の軍を監し、麾下の海州攻略の功が最も多かった。世宗が北征を議した折、まず懐忠を遣わして出師の道路を按視させ、三関平定で如京副使に遷る。
- 宋初、内酒坊副使に遷る。朗州で軍が乱れた際、太祖が出師して討とうとして懐忠を荊南に使いさせ、「江陵の人情の去就、山川の向背をすべて知りたい」と告げた。懐忠は使いから戻り「高継沖の甲兵は整っているが弓弦を引ける者は3万を超えず、年穀は豊かでも民は苛斂に苦しんでいる。南は長沙に近く東は金陵に接し西は巴蜀に迫り北は朝廷に奉仕している。その形勢は日々の維持もままならないだろう」と奏した。太祖は宰相范質らを召し「江陵は四分五裂の国、今、湖南に出師して荊渚に道を借りこれを下すのは万全の策である」と述べ、懐忠を前軍歩軍都監とした。荊湖平定の功で内酒坊使に遷る。
- 乾徳2年(964年)、判四方館事に改まり知江陵府。乾徳4年(966年)、王師の蜀征伐で江陵は峡江の要衝として供億の労が多く、客省使に遷る。翌年、江南への使者となり、帰途で病を得て肩輿で京師に帰った。太祖は医者と艾を賜ったが、まもなく没した。享年49。大中祥符4年(1011年)、その子熙が校書郎に録された。