趙玭
- 澶州の人。家は財に富んだ。後晋天福中、粟を納めて辺用を助けたことで集賢小吏に補せられ、濮州司戸参軍に調される。刺史白重進はその年少を試そうと、滞獄の事案を委ねたが、玭は的確に裁決した。重進が虢・成二州の刺史に移ると連ねて従事に辟された。
- 契丹が乱を構えた折、秦州の何重建が地を蜀の孟知祥に献じ、高彦儔を秦州節度としてこれを支郡とした。因って玭を秦・成・階等州の観察判官とした。後周顕徳初、王景が兵を率いて秦鳳を討った際、彦儔は救援の兵を出したが未着のうちに軍が敗れたと聞いて潰走して帰った。玭は門を閉ざして受け入れず、官属を集めて「今、中朝の兵甲は天下無敵、西征以来戦って勝たぬことなし。蜀から遣わされた将はいずれも武勇の者、卒もみな驍鋭であったが殺戮・遁逃の果てにほとんど残っていない。我々が座して禍を受けるのは忍びない、危を去り安に就くべきは今日のことだ」と諭すと、皆俯して命に従った。玭はついに城を挙げて朝に帰した。世宗は藩鎮に任じようとしたが宰相范質が不可とし、郢州刺史を授けられた。汝・密・沢三州刺史を歴任。
- 建隆中、宗正卿として入朝。乾徳初、秦州刺史として出て、乾徳2年(964年)、左監門衞大将軍・判三司に改まる。玭は狂躁婞直で上の意向にしばしば逆らったが、太祖は寛容に扱った。かつて宰相趙普が私に秦・隴の大木を市したことを廉知して密かに上奏したが、普に知られることを恐れ、足疾を称して解職を求め、乾徳5年(967年)春、罷めて本官のまま守った。以後、密かに献じた疏はみな留め置かれて出されず、玭は普が中傷したのではと疑った。
- 乾徳6年(968年)、詣闕して授けられた告命を納め、詔で私第に帰らされ、さらに鄆州への退居を請うたが許されなかった。玭は忿懣に耐えかねて年を越え、普の入朝を伺い馬前でその短所を大声で言い立てた。太祖はこれを聞き、玭と普を便殿に召して事の真偽を対質させた。玭は大声で普が木材を販り利を規ったと詆り、太祖は怒って百官を集め普を糾弾させ、その事を諭した。王溥らが玭は大臣を誣妄したと上奏し、普の件は解明された。太祖は玭を詰責し武士に命じて撾たせ、御史に殿庭で鞫させた。普が営救に努め罰は軽くされたが、汝州の牙校に黜けられた。太平興国3年(978年)没、享年58。