宋史卷二百七十四 列傳第三十三 張保續

張保續

  • 字は嗣光。京兆万年の人。父の洪は唐の左武衞上将軍。保續は蔭により太廟斎郎に補せられ、後梁貞明中、臨済尉に調され、四方館通事舍人に選ばれた。後唐天成初、瓜州官告国信副使を領し、郊祀により右賛善大夫に改まる。後晋天福中、太府・光禄の両少卿を歴任し、職はそのまま通事舍人を領した。
  • 開運2年(945年)、契丹が侵入した際、杜重威・李守貞・符彦卿らが兵を率いて防戦したが、保續は騎馬で軍中を往来し機事を諭す任にあたり、まもなく陽城で敵を大破した。使いから戻ると本官のまま西上閤門副使を充てられ、翌年荊南への使者を務め、帰還して東上閤門副使に転じた。契丹が闕を犯した際は北へ連れ去られ范陽に留まること1年余りで逃げ帰った。
  • 後漢乾祐初、隴州防禦使として出るが、後周太祖の革命に召されて東上閤門副使となり、慕容彦超平定に従い引進副使に累遷、知閤門事を兼ねた。世宗即位後、西上閤門使を授かり、翌年東上閤門使に進む。淮南親征に従い、寿州が降を納めた折、保續を先に遣わして慰撫させ、劉仁贍が将卒を率いて出降するに及び、その功で判四方館事に遷り、就いて客省使に遷る。瓦橋関平定に従い、呉越への使者を務めた。
  • 宋初、衞尉卿に遷り四方館・客省・閤門事を判す。保續は性格が介直で倹素を好み、閤門にあること前後40年、宣賛の辞令に優れ聞く者は感服した。しばしば藩国への使者となり命を辱めず、六朝に歴事しながら過失がなかったという。李筠征討には足の疾により河内に留まった。建隆3年(962年)没、享年64。