出自と経歴
- 馬仁瑀、大名夏津の人。十余歳のとき父が学に就かせようとしたが逃げ帰り、また郷校に遣わされ『孝経』を習わせられたが旬余で一字も識らず博士に笞刑を科された。仁瑀は夜に独り学堂を焼き博士はわずかに身をもって免れた。常に里中の群児数十人を集め遊びで行陣の様を演じ自ら将軍と称し、日々約束して遅れた者には鞭を打ち、群児はみな畏れ服した。また果物を市い均しく分け与えさらに親しみ従わせた。成長すると射をよくし二百斤の弓を挽いた。
- 後漢乾祐中、後周太祖が鄴を鎮した際、仁瑀は十六歳で帳下に隷することを願い出た。太祖は素よりその勇を聞いており見えると甚だ喜び左右に留め置いた。広順初年、内殿直に補せられ、世宗嗣位により衛士に苑中で射を習わせた際、仁瑀の弓力は最も勁く放つ矢の多くが的中し錦袍・銀帯を賜った。太原の劉崇が侵寇した際、世宗は自ら高平まで親征したが周師は不利になり諸将の多くが引退しようとした。仁瑀は衆に「主が辱められれば臣は死ぬべきだ。我らは何のためにあるのか」と語り、弓を控え馬を躍らせ身を挺して陣を出、賊を射て斃した者は数十人に及び士気はますます振るい、大軍がこれに乗じ崇はついに敗績した。
- 世宗が上党に至ると失律で誅せられた諸将は七十余人に及んだが、仁瑀は弓箭控鶴直指揮使に抜擢された。京に還ると散指揮使に遷り、淮南征討に従い楚州に至って水砦を攻めた際、砦中に高さ百尺余りの飛楼が建てられ、世宗がこれを観るためおよそ二百歩を隔てた所にいたが、楼上の望卒が厳しい声で嫚罵(侮辱)した。世宗は甚だ怒って左右にこれを射させたが遠くて及ばず、仁瑀が満弓を引くと弦に応じて顚(倒れ)た。淮南平定後、身に数十創を被り良薬を賜られ内殿直都虞候に遷り、また三関平定に従った。恭帝嗣位により詔で太祖の北伐に従い、初め佐命の功により散員都指揮使を授けられ貴州刺史を領し、まもなく鉄騎右廂都指揮使に遷り、また虎捷左廂都指揮使となり扶州団練使を領す。
- 澤潞平定に従い功により常州防禦使・龍捷左廂都指揮使を領し、建隆二(961)年、岳州防禦使に改領し、まもなくまた漢州に改領した。初め仁瑀らに荊湖諸郡を領するよう詔されそれから数年でその地を復し、この頃、蜀征討に際しまた川峡諸郡を領するよう詔されこれを平定した。これより先、薛居正が貢挙を知った際、仁瑀は私に推薦しようとする人物を頼み込んだが、榜が出ると該当者はおらず、聞喜宴の日、仁瑀は酒に酔い頼み込んだ人物を連れて居正の元へ行き切責したため、御史中丞の劉温叟に劾せられたが帝はこれを寛容した。
- 王継勲が后族(皇后一族)として驕恣に振る舞い将帥を凌蔑し、人はみな引き避けたが、独り仁瑀だけは言葉遣いを退かず、かつて腕をまくって殴ろうとしたことがあった。折しも帝が郊外で講武しようとした際、両者は互いに図ろうとし各々所部の兵を勒し密かに白梃(棒)を市った。太祖はこれを密かに知り講武を罷める詔を出し、仁瑀を密州防禦使に出した。太祖の晋陽征討に際し仁瑀に師を率い辺を巡らせると上谷・漁陽まで至り、契丹は素より仁瑀の名を聞いており敢えて出なかったため兵を放って大いに掠め、生口・牛羊数万を計り俘虜とした。駕が還ると仁瑀は治所に帰った。
- 翌年、群盗が兖州に起こり賊首の周弼・毛襲は甚だ勇悍で材貌竒偉であり、弼は「長脚龍」と号された。監軍が数度討捕して利あらず、詔で仁瑀に掩撃させると、仁瑀は帳下十余卒を率い泰山に入り弼を捕らえその党をことごとく獲、魯郊はついに平定された。開宝四(971)年、瀛州防禦使に遷る。兄の子がかつて酔いに乗じ誤って平民を殺し獄に繋がれ死罪に当たったが、民家は自ら「宿念(前からの恨み)があるわけでなくただ過ちであった」と言い過失殺傷として論じることを願い出た。しかし仁瑀は「私は長吏でありながらその兄の子が人を殺した。これは勢いを恃んだのであって過失ではない。どうして私事のために国法を乱せようか」と述べ、遂に律の通り処断し民家には布帛を給し棺殮の具に充てさせた。
- 太平興国初年、遼州を知ることに移り、四(979)年、車駕が太原征討に赴くと、仁瑀に成州刺史の慕容超・飛竜使の白重貴・八作使の李継昇とともに兵を分けて城を攻めることを命じられ、範陽征討では仁瑀に禁兵を率い契丹を盧竜の北で撃たせると契丹兵は奔潰し師が還ると朔州観察使に遷り瀛州事を判す。七(982)年、五十歳で卒し河西軍節度を贈られ葬事は官給とされた。
史論
- 宋初、交広・剣南・太原はそれぞれ大号を称え、荊湖・江表はわずかに貢奉を通じるにとどまり、契丹は相抗し、西夏はいまだ服従していなかった。太祖は常に将帥の任命に注意を払い、李漢超を関西に屯させ、馬仁瑀に瀛州を守らせ、韓令坤に常州を領させ、賀惟忠に易州を守らせ、何継勲(継筠)に棣州を領させて北敵を拒がせた。また郭進に西山を控えさせ、武守琪に晋州を戍らせ、李謙溥に隰州を守らせ、李継勲に昭義を鎮させて太原を禦がせ、趙贊を延州に屯させ、姚内斌に慶州を守らせ、董遵誨に環州を屯させ、王彦昇に原州を守らせ、馮継業に霊武を鎮させて西夏に備えさせた。
- その一族で京師にいる者は厚く撫し、郡中の筦榷(専売)の利はことごとくこれに与え、貿易をほしいままにさせ、通過する地の征税を免じ、亡命者を召募して爪牙とすることを許し、軍中の事はすべて便宜を得させた。来朝するたび必ず召対し坐を与え飲食を厚くし賜賚して遣り返した。これにより辺臣は資財が豊かとなり死士を養うことができ、間諜として敵情を洞知させ、その入侵に際し伏を設けて掩撃することが多く戦勝をもたらした。二十年の間、西北の憂いがなく、将を命じ師を出して西蜀を平定し、湖湘を拓き、嶺表を下し、江南を克ち、向かうところみな志を遂げた。これはよく赤心を推して群下を馭したことによるものである。
- 李進卿・楊美もまた師を専らにし西征に従ったが、美は北海に居り楽易(安易で楽しい政)で民心を結んだのは、まことに政を為すの本と言える。延渥・承矩・守恩・允正はみな先業を紹いで勲名で著れ、承矩の屯田を議し和好を賛したことはその謀が甚だ遠大であり、守恩は果敢に事に死んだ。宋の武功はこれらにおいて最も盛んであった。