出自と経歴
- 張暉、幽州大城の人。後唐清泰初年、控鶴軍に隷し奉国弩手都頭に累遷。後晋開運末年、武行徳とともに契丹の甲船を河陰で奪い、行徳が河陽を領すると暉は弩手指揮使とされ懐州に兵を趣かせられた。契丹将が遁れ去ると州軍を領し、後漢祖が汴に入ると暉は滎陽で出迎え懐州刺史を授けられた。乾祐初年、郢州刺史の慕容業が治政に不法多かったため暉を縁漢都巡検使とし唐州に屯兵、郢州に至って業に代わり京に還ると、郢州刺史に改める。後周広順初年、劉崇が晋絳を寇した際、暉を歩軍左廂排陣使に召し師が還ると沂州刺史に改める。三(953)年、吏民が闕に詣で留任を請い、まもなく冀州に改め、李晏口・束鹿・安平・博野・百八橋・武強等の築城を詔された際、暉にこれを護させ月を越えて完成させた。
- 世宗の淮甸征討に従い壕砦都指揮使を充て、楚・泗を抜くと泗州を授けられ、まもなく耀州に改め西南面橋道使となる。宋初、澤潞征討に従い行営壕砦使となり先登陥陣、事平後は華州団練使に遷り郡での治績が良かった。建隆二(961)年、太原が未だ下らぬ中、入朝し計を問われ、暉は「澤潞は李筠の叛乱で瘡痍が未だ復せず、軍旅を再び興せば人力が重ねて困窮しよう。むしろ兵を戢め民を育て富庶を待って謀るべきだ」と答え、襲衣・金帯・鞍勒馬を賜り州に還らせた。朝廷が蜀征討を議した際、鳳州団練使に遷り緣邊巡検壕砦橋道使を兼ね、暉は山川の険易をことごとく知り密かに疏してこれを陳べ、太祖はこれを見て大いに悦んだ。
- 乾徳二(964)年、大軍が西下する際、西川行営先鋒都指揮使を充て兵を督し大散関の路を開き、自ら士卒を撫し役と戦を兼ね、人はその労を忘れた。十二月、青泥嶺に至り卒した。天禧五(1021)年、暉の妻が百五歳で家貧しく闕に詣で自陳、詔で束帛を賜りその孫の永徳を録して三班借職とした。