出自と経歴
- 荊罕儒、冀州信都の人。父の基は王屋令。罕儒は少くして無頼で、趙鳳・張輦と群盗をなしていたが、後晋天福中、相い率いて范陽に詣で燕王趙延壽に身を委ね親兵を掌るに至った。開運末年、延壽が契丹主徳光に従い汴に入った際、罕儒を密州刺史とし、後漢初、山南東道行軍司馬に改め、後周広順初年、率府率・奉朝請となったが貧しくて振るわなかった。顕徳初年、世宗が高平の戦いで命に従わなかった者を戮した際、驍勇の士を求め、通事舎人の李延傑が罕儒を推薦、召されて行在に赴き招収都指揮使となる。太原征討に際し歩卒三千を率い先んじて敵境に入ることを命じられ、罕儒は人に束ねた芻(まぐさ)を負わせ太原城に直進させ東門を焼いた。功により控鶴弩手大剣直都指揮使に抜擢される。
- 淮南平定に従い光州刺史を領し、泰州を改めて下蔡守禦都指揮使とし舒・蘄二州招安巡検使を兼ねる。四(957)年、泰州が初めて下り真拝で刺史となり海陵・鹽城両監屯田使を兼ねる。翌年三月、世宗が泰州に幸した際、罕儒を団練使とし金帯・銀器・鞍勒馬を賜った。六(959)年春、軍吏耆艾(老人)が闕に詣で留任を請い、恭帝は詔で褒めた。建隆初年、鄭州を防禦州に昇格させ罕儒をその使とし晋州兵馬鈐轄に改める。罕儒は勇を恃み敵を軽んじ、しばしば騎兵を率い深く晋境に入り、人々は多く城壁を閉ざして出ず、虜獲は甚だ多かった。
- この年冬、再び千余騎を率い汾州城下に至り草市を焼き兵を按じて退いたが、夕に京士原に次った際、劉鈞が大将の郝貴超に万余の衆を率い罕儒を襲わせた。夜明けに追いつくと罕儒は都監の氈毬副使閻彦進に兵を分けて貴超を禦がせ、罕儒は錦袍で甲を裹み胡床に据わり羊の臂臑を割いて食していたが、彦進が小しく退いたと聞くとすぐ馬に乗り兵を麾いて賊の鋒に直進し、并州の人々が戈を集めてこれを衝いたが、罕儒は格闘し手ずから十数人を殺してついに戦死した。劉鈞は素より罕儒の勇を畏れ生け捕りにしようとしていたが、その死を聞くと殺した者を処刑した。太祖は痛惜し、その子の守勲を西京武徳副使に抜擢し、京士原で効あらなかった者を糾問し慈州団練使の王継勲を率府率に降格、閻彦進を殿直としその部下の龍捷指揮使石進徳ら二十九人を斬った。
- 罕儒は財を軽んじ施しを好み、泰州にあって煮海の利は歳入巨万に及んだが、詔で十分の八まで用いることを聞き入れられてもなお足りず、家財の出入りは籍せず問わなかった。供奉官の張奉珪が泰州に使した際、自ら後唐の張承業の子と称すると、罕儒は「私は生前、張特進の名をよく聞いていた。幸いにもその子を知ることができた」と厚く礼待し銭五十万・米千斛を贈った。罕儒は書を知らなかったが儒士を礼をもって遇し、進士の趙保雍が及第を覆落され海陵に客遊した際、その望むところを問い、保雍が「京師に帰りたいが、緣江の榷務で絲を茗と交換すれば厚利がある」と言うと、罕儒はすぐに主藏の奴を召し蔵中の絲を籍させ四千余両を得てことごとくこれを与えた。しかし勇を好み戦を善くし勝負を顧みず、常に太原の平定を志しながら果たせずに敗れ、人々はこれを惜しんだ。罕儒の兄は延福、延福の孫は嗣という。
嗣
- 嗣、乾徳初年、募に応じ控鶴卒となり李継勲の河東討伐に従う。継勲が悍勇な百人を選んで間道から洛陽砦を截らせた際、嗣は行間から進み出て手ずから五十余級を斬った。賊は砦を焼いて夜に遁走し、汾河に迫った際、賊将の楊業が橋路を扼していたが、嗣は衆とともに転戦し賊を退けて橋を越え、業の所部兵を千計殺し、業の従騎から旗鼓・鎧甲を多く獲た。業は退いて城を保ち、進んで南門を焼き羊馬城を奪い矢が面に集まった。賊数千が夜に砦に迫った際、継勲が勇敢五百人を選んで応戦し嗣がその先頭となり、夜明けまで数合戦い多くを斬馘した。太祖の太原征討に従い賊が来て拒み洞子を焼いた際、殿前の楊信に百人を率い援けさせ嗣もこれに預かり先んじて陣に陥り、御龍直に補せられた。太平興国初年、三たび遷り天武軍校に至る。
- 太宗の再度の太原征討で嗣は自ら先登の一隊を率いることを願い出て城西の洞子車を主管し、駕が師を巡る際、嗣は城に登り手ずから数人の賊を刺し、足に双箭を貫かれ手を礮で二本の歯を折られたが、太宗はこれを見て召し錦袍・銀帯を賜った。幽州征討では殿前の崔翰に隷し三十級を斬り龍猛副指揮使に補す。五(980)年、契丹が雄州を侵し龍湾堤に拠った際、嗣は袁継忠に隷し、継忠は千兵を率いて力戦させ路を奪った。内侍が州に至り城壘を閲していたところ敵が郛外に進み包囲、急ぎ兵を出して接戦十数合、騎卒七百余を斬った。嗣の軍は夜に相失い古城荘外にあったが、三鼓で敵の囲みを突破し莫州城下の壁に至り、また百人を率い敵の望楼を斧で斬り五十級を斬った。
- 敵が橋を界河にかけ遁れようとしたのを嗣は邀撃し殺獲甚だ多かった。六(981)年、崔彦進に従い契丹を静戎北砦・愼興口で捍ぎ、彦進は嗣に所部を率い河を渡らせ契丹と戦わせこれを敗り二十余里追奔した。八(983)年、李継遷が辺を寇した際、嗣は袁継忠・田欽祚に従い三叉口を戍り前鋒として賊千余を斬りこれを追って牛羊・鎧甲・弓矢数千計を獲、万井口・狐路谷まで進むと残敵が再び戦いを請うてきた。当初、雄武千人を後殿としていたが賊に掩われ、継忠が嗣に援護させると数戦の末に雄武と合流し陣を列して格闘し人馬七百余を再び奪った。欽祚が夜に還り山を依って営し賊もその下に砦を設けた際、勁卒五十を募って襲わせ、嗣がその帥となり賊の所に抵り百余人を刺殺しその砦を焼いて還った。詔により錦袍・銀帯を賜る。
- 雍熙三(986)年、田重進・譚廷美に従い遼境に入り飛狐口で疾戦、遼師不利となり重進は全師を引いて合撃し遼騎は引き去った。飛狐城北に進むと遼将の大鵬翼が衆を率い再び至り、重進の陣は東偏で数戦して勝てず、嗣を西偏に出させ兵を麾いて山崖に迫り短兵で接戦させたところ、遼兵は敗れ崖に投じて落ち、手ずから百余級を斬り、散卒千余が野にあったのを嗣は呵止し弦を断ち箭を折らせて降らせた。河槽まで追い再び撃退し土嶺に屯した。裨将の黄明が戦って勝てず退こうとしたのを嗣は「汝は且くここに屯し我の声援となれ。私はこの嶺を奪おう」と述べ力戦して五十余里追奔し倉頭まで至って還った。また招収卒千人を率い倉頭を克ち小治二砦を破り、黄明が戦って直谷砦を克った際、嗣に屯させたが数日後、遼人が再び師を致し重進と戦い奔突往来し大軍が頗る擾された。重進は嗣を召し合戦させ悉くこれを走らせ礮具・鎧胄を奪った。
- 賊が夜に乗じ再び直谷・石門の二砦を囲んだ際、重進は嗣に精兵五百でこれを済けさせようとしたが、嗣は「敵二万余に対し今の援師は甚だ少なく解囲は難しい」と述べた。重進が憂う中、嗣は「譚師は小治に屯し兵二千を綰ねている。間道からこれに行き応援を要請したい」と言い、中夜に匹馬で廷美に詣ると、廷美は「敵勢がこうでは解けようか」と述べた。嗣は「全軍を移し平川に就かせ旗を植え隊を立て、別に二三百人を選んで白旗を道側に張れば、彼は旗幟が綿亘するのを見て大軍が続いて至ると思うでしょう。嗣は自ら所部五百で疾駆して闘い必ずその砦を克ちます」と請い、廷美はこれを許した。一日に五七戦し遼兵はついに引き去り、すべて嗣の予測通りとなった。
- 蔚州の降伏に際し、重進はまず嗣に勇士数十人を率い縄で下ろして入り守将に会わせ実情を得させた。翌日、降伏を受けようとしたが敵が反対し大軍の出路を拒んだため戦いとなり、殺傷甚だ多く、しばしば城に縄で下ろして入り守将の帰服する者を取った。重進の壘の糧運が乏しくなった際、嗣は降卒に州の廩を輦ばせて済けた。遼の援兵が大挙して至り、副都指揮使の江謙が妄言を発し衆を惑わせた際、嗣はすぐこれを斬り兵を悉く収め輜重を斂めて重進の砦に還った。遼人との転戦の中、軍校五人のうち四人が戦死し大嶺に至った際、嗣は戦って敗走させた。師が還ると太宗は便殿に召見し、重進はその功労を言い本軍都虞候に補せられた。
- また李継隆に従い北平砦で敵を禦ぎ、蒲城に赴く途上で敵に遇い疾戦して俘獲甚だ多く、また鸞女祠で戦った。継隆が歩卒二千を定州古城に伏せ敵に攻められた際、嗣に援けさせ、唐河橋に至った嗣は橋路を扼して出戦し重囲を解き、伏兵と合し三隊に分かれ水を背に陣し、敵将の于越が騎百余を率い烽台に臨んで戦いを求めた際、嗣は兵を整えて数合戦い継隆と合流、東偏でも陣し大破した。継隆はこれを上聞し詔で嘉奨、本軍都指揮使に遷り澄州刺史を領す。至道二(996)年、御前忠佐馬歩軍頭を加え定州に屯す。遼人の侵入に対し范廷召に隷し偏師で遼兵を嘉山で捍ぎ、廷召は高陽に徙り嗣に兵二千で殿を務めさせ平敵城を過ぎると遼衆十余万が来た。嗣はしばしば出戦し桑贊・秦翰が来援すると夜二鼓に敵が再び至り、嗣は「彼は夜戦を利としない。我らはその砦を破って大軍に趣くべきだ」と言い、贊・翰と合勢し所部に敵の炬火の多い所を望んで力を合わせ衝くよう戒め、朝には瀛州に至った。
- 咸平三(1000)年、本州団練使を加領し郎山路都巡検使に出て敵砦を蒲陰で破り俘獲甚だ多かった。四(1001)年、嗣に万人を率い西山路を断つよう命じたが敵が遽に至り大兵が及ばずに止まった。五(1002)年、真拝で蔡州団練使・趙州部署となり、年を越えて滄州に徙る。この冬、遼人が侵入した際、所部を率い齊州から淄青まで防備。景徳初年、劉漢凝・田思明とともに兵を率い冀州に至り防辺を命じられ、まもなく澶州行在に赴く。遼人が和を請うと再び還任を命じられ、鄆・鳳翔・永興の部署を歴任、車駕が亳州に幸した際、旧城内同都巡検使として留められる。大中祥符七(1014)年、虢州防禦使・邠州環慶副部署に改め卒した。嗣は行間から起こり労を積むこと百五十余戦に及んで没した。兄の子の信・貴はともに左侍禁となり、貴は内殿崇班に至った。