宋史卷二百七十一 列傳第三十 輔超

出自と経歴

  • 輔超、忻州秀容の人。家は代々農を業とした。超は少くして勇悍で力があり、後晋開運中、募に応じ澶州軍籍に隷す。後漢乾祐中、趙思綰が永興に拠って叛いた際、後周太祖が諸将を護し討伐、兵を督して攻城する中、超は驍勇十七人を率い雲梯に登り北門の楼を斫り、楼が壊れて入り士卒が続いて進み城は遂に陥った。功により小校に補す。顕徳中、太祖の淮南征討に従い常に鋭を執り前駆となり滁泗を定め淮陰を破り揚州を下し、功により日騎副兵馬使に転じる。宋初、上党平定に従い再び内直都知に遷る。太宗即位により馬軍都軍頭とし、親征太原に際し矢石を冒し堞を攀じて先登し身に十三創を被った。帝はその勇を嘉し錦袍・銀帯・帛五十段を賜り、翌朝も再び城に登り流矢に中った者が八人あり、また厚く賜わった。
  • 范陽への大挙襲撃で兵を三路に分け、超は偏将の米信に隷し田重進の先鋒として飛狐・蔚州を取り、馬歩軍副都軍頭に遷る。まもなく曹州馬歩軍都指揮使を補し峯州刺史を領し、欒州に改め、召還されて都軍頭に転じる。淳化三(992)年、徳州刺史に出たが、使者を誣奏し驛吏を殴殺させたとして右監門衛将軍に降格され誠州刺史を領した。五(994)年、再び都軍頭を加え澄州刺史を領し、真宗即位により獎州団練使を領するを加えられ、真拝で莱州団練使となる。年老いて京師に留まることを願い出てこれに従い、景徳元(1004)年、七十七歳で卒した。

史論

  • 太祖が天下を有した際、五代の臣はみな恩信で結び付けられなかった者がなく、その反側を安んじると同時に威力を借りて四方を鎮撫した。当時の諸将、吳虔裕・蔡審廷らの徒はしばしば征討に従いいずれも労績があった。馬令琮は河内を守り兵食を儲え王師を迎え、解暉は湖南を撃ち鋒鏑を冒して敵将を捕らえた、これらは忠藎驍果と称すべきである。杜漢徽の病重くして薬を辞したこと、張藏英の親のための復讐は、いずれも一節の美と言える。ただし張勲の殺を嗜んだことと王晉卿が貨に貪ったことは、威を立て勤めを著したとはいえ、取るべきところではない。