出自と経歴
- 趙延進、澶州頓丘の人。父の暉は後周太子太師。暉が偏将であった頃、趙在礼が鄴に拠っており、延進は幼くして学を好んだが、軍中の若者たちが民家に入り財貨を競って奪う中、延進は独り書数十編を持ち帰り、同輩に笑われた。後漢末、暉が鳳翔節度を領し未だ鎮に赴かぬうちに王景崇が城に拠って反した際、暉は都招討使としてこれを撃ち、延進は十八歳でしばしば軍鋒に当たり、景崇平定後、延進は捷報を奏し入って鳳翔牙内指揮使を授けられ貴州刺史を領した。暉が宋州に徙ると延進も牙職として従い榮州刺史に改領。睢陽で盗数百が各々酋帥を立て民の患いとなった際、延進は父の命により牙兵千余を率いことごとく捕えて誅殺し詔書で褒美された。父の喪に丁り服を求め表し、喪が終わると後周世宗の淮南征討に際し延進は万縑を献じ軍を助け対面を請うと、世宗は召見した。
- この時、延進の従兄が虎捷都虞候帳前横衝指揮使であり、世宗は延進を指して「爾の弟は拳勇で謀があり、禁軍の大校に任じよう」と語ったが、延進は読書を好み願わないと自陳した。翌日、右千牛衛将軍・濠州兵馬鈐轄を授けられ、瓦橋関征討に従い随駕金吾街仗使となった。宋初、右羽林軍将軍・濠州都監に遷り、蜀を伐つ際、襄州が川路の要にあるとして鈐轄・同知州務とされた。蜀平定後は専ら郡事を領し、漢江の水が歳ごとに堤を壊し民田を害していたが延進は工を興し修護し石を累ねて岸とし、その患いを絶った。両浙・漳泉国信使として入り、開宝二(969)年、右龍武将軍を授けられ霊州を知る。母の老いにより留まることを願い出て権判右金吾街仗使となり、河中府・梓・相・青の三州知事を歴任。太平興国中、大軍が并州を平定し幽薊を討つ際、みな攻城八作壕砦使となり、詔により礮具八百を半月で督造するよう命じられたが、延進は八日で成し太宗は自ら試して大いに悦んだ。
- また城北の諸洞子を主管し、班師の際は孟元喆・薬可瓊とともに定州に留屯するよう命じられた。遼人が辺を擾したため延進は崔翰・李継隆とともに兵八万を率いこれを禦ぐ命を受け、陣図を賜り八陣に分かれて事に従うこととされた。師が蒲城に次った際、遼騎が坌がり集まり、延進は高きに登り望むと東西が野に亘り際が見えなかった。翰らはまさに図に照らして布陣し、陣は各々百歩を隔てていたため士衆は疑懼し全く闘志がなかった。延進は翰らに「主上は我らに辺事を委ね敵に克つことを期している。今、敵はこれほど多く我が師は星のように分散し勢いは懸絶している。彼がもし我らを持てば我らはどう対処するのか。合して撃つほうが勝を決しやすい。令に違って利を得るのと、辱を国に招くのとどちらが良いか」と説いた。翰らは「万一勝てなかったらどうする」と言ったが、延進は「もし失敗すれば延進が独りその責を負う」と答えた。
- そこで二陣に改め、士衆はみな喜び、三戦して大破し、人馬牛羊鎧甲数十万を獲た。功により右監門衛大将軍に遷り鎮州を知る。代わる際、吏民数千が闕を守り留任を請うたため詔により一年留めることが許され、まもなく右領軍衛大将軍に改め高陽関平戎軍都監兼緣邊巡検に出て鈐轄に改め揚州を知る。召し入れられ右屯衛大将軍を授けられ相州知事に徙り右驍衛大将軍に遷り鄧州知事に改める。淳化初年、飛蝗が境に入らず詔で褒められ、還って右金吾街仗事を判し、至道二(996)年、右金吾衛大将軍を拝し、咸平二(999)年、七十三歳で卒し右武衛上将軍を贈られた。延進は姿状秀整で経史に渉猟し詩を作ることを好み士流に多く称された。延進の妻は淑徳皇后の妹であり、これにより顕徳・興国中にしばしば腹心として任じられた。子の昂は太平興国二(977)年、進士に登第し戸部郎中・直昭文館に至った。