出自と経歴
- 段思恭、澤州晋城の人。曽祖の約は定州司戸、祖の昶は神山令、父の希堯は後晋高祖が太原を鎮した際に従事として桑維翰と同幕であった。後晋が天下を有すると希堯は代々清顕を歴任、思恭は門蔭により鎮国軍節度使官に奏署された。天福中、希堯は棣州刺史・権鹽礬制置使に任じ、思恭は解官して侍養し、章を奉り入貢し国子四門博士に改められ緋を賜る。開運初年、華・商等州観察支使に出た。劉継勲が同州を制した際、掌書記として辟され、継勲が入朝すると契丹の入汴に遭い軍士が諠譟し思恭を州帥に立てようとしたが、思恭は禍福を諭し拒んでこれに従わせなかった。後漢祖の建国により左補闕を授けられる。隠帝の代、蝗害があり山川の祈祷が徧く詔され、思恭は「過を赦し罪を宥め獄を議して刑を緩めれば、獄訟が公平となり災害も生じない。諸州は速やかに重刑を決し淹濫させぬようにすれば必ず和気を招く」と上言し容れられた。
- 度支・駕部を歴任し、後周顕徳中、濵州の田賦を定め世宗はこれを嘉し金紫を賜り、父の喪に丁り服闋後は左司員外郎を拝す。建隆二(961)年、開封令に除せられ金部郎中に遷り、乾徳初年、蜀平定後は眉州通判となる。亡命者が集結し州城を攻逼した際、刺史の趙廷進は敵し得ないことを懼れ嘉州へ奔ろうとしたが思恭はこれを止め、屯兵を率い賊と彭山で戦ったが軍人はみな観望し闘志がなかった。思恭は先登する者への厚賞を募ると諸軍は勇を奮い賊を大破した。思恭は詔を矯めて上供の銭帛を給し賊を破ったが、後に度支がその罪を按じようとし、太祖はその果幹を憐れみ許さず州事を知らせた。母の喪により起復、まもなく考功郎中に召され泗州を知る。馮継業が霊州から一族を挙げて来朝すると、帝は思恭を代わりに知州事とし「馮継業は霊州は衛霍のような名将でなければ鎮撫できないと言っている。汝は往くがよい」と語ったが、思恭は「臣は詔を奉じて往くからには必ず治めます」と答え、帝はこれを壮とし窄衣・金帯・銭二百万を賜った。
- 諸部を渉る際には別に金帛を齎して贈らせ、思恭は着任後、継業の失政を矯め夷落を綏撫し民の病苦を訪ね悉く条奏して免除した。回鶻が入貢し霊州を経て市で交易した際、思恭は吏を遣わし硇砂を市買させたが、吏が値を争いその使者と競い合い、思恭は吏を釈放しその使者を械にかけたが、数日後に赦した。使者は帰って主に訴え、再び使者を遣わして牒を齎し霊州に詣で理由を問うたが、思恭は理屈で応じなかったため、以後数年、回鶻は朝貢しなくなった。久しくして右諌議大夫に遷り揚州を知り、朝廷が江表を経略しようとする際、思恭に沿江巡検を兼ねさせた。巡邏に出るたび州事を通判に委ね、牌印鼓角金鉦を自ら随えたが、京師からの駅書が齎される際、しばしば滞留した。通判の李岧と互いに告訐に及び有司に付されたところ、思恭は理を尽くさぬとして太常少卿に降格され宿州を知る。
- 太宗即位により将作監に遷り秦州を知る。官庫の銀を擅に借りて器を造り、また貢奉と偽って狨毛・虎皮を安く市い馬飾としたことが通判の王廷範に発覚され少府少監に降授され邢州を知る。太平興国六(981)年、少府監に遷り、雍熙元(984)年、南郊が終わり旧官の復を表求し再び右諌議大夫となり、二(985)年、寿州を知り、端拱初年、給事中に遷り、まもなく陝州を知り、淳化三(992)年、七十三歳で卒した。思恭は門資により顕官を歴任したが書を知らず学術もなかった。しかし吏事の実践には勤績があった。子の惟一は太常博士・三司度支判官に至り、従子の惟幾は進士に及第し兵部員外郎に仕えた。