宋史卷二百七十 列傳第二十九 楊克讓

出自と経歴

  • 楊克讓、字は慶孫、同州馮翊の人。高祖の公略は洪州都督。後晋末年、進士に挙げられなかったが州将の劉継勲に戸曹掾として辟された。後漢乾祐年間、本府節度の張彦成が掌書記として表す。後周広順初年、彦成が安陽に移鎮すると克讓は旧職のまま従い、彦成は入京し執金吾となったが病篤くその才を用いるべきと奏したものの、克讓は彦成の未葬を忍びず退いて別墅に居り張氏の子の服喪明けを待った。当時、人々はこれを称えた。鎮寧軍掌書記を歴任し、顕徳二(955)年、鳳翔府司録参軍を授けられ監察御史を兼加、祖母の老いにより解官帰養、まもなく延州観察推官に改められ、通判の宋琪とともに節度使の趙贊に礼遇された。朝散大夫・殿中侍御史を加えられたが家難により連続して去職。
  • 太祖は元々その名を知っており、趙贊が入覲した際、その才を称えたことで左補闕に起用され蘄口榷貨務を掌る。乾徳六(968)年、果州知事となり、祖母の喪事が畢わるよう緡銭の賜を願い出て許され赴任。開宝三(970)年、西川転運副使に命じられ、蜀民はその善政を懐き璽書で褒美された。代わって帰った際、疏を上げて民の利病十事を稟い旨に称い、太祖は殿に召し坐を賜り労問し金紫を賜って大用しようとしたが、侯陟に沮まれた(陟伝に見える)。南唐征討では克讓は昇州行府を知り、昇州平定後、州事を知り水陸計度転運使を兼ね兵部員外郎を加える。太平興国初年、刑部郎中を加え大名府を知る。銭俶・陳洪進が疆土を帰した際、克讓は両浙西南路転運使となり、泉州民が嘯聚し盗となった際、福州から屯兵を率い泉州に至り王明・王文宝とともにこれを討ち平定した。四(979)年、広州知事に徙り転運市舶使も兼ね、翌年、六十九歳で卒した。
  • 克讓は少くして学を好み経籍を手写し箧笥に満たし図書墨跡を多く収め、歴官は廉謹で幹局があり、視事するごとに朝から晩、あるいは通夜、川の流れのように決断し滞ることがなく、当時は能吏と称された。子の希閔、字は無間、生まれつき目が見えず、諸弟に経史を読ませ一度耳にすれば忘れず、文をよくし手紙もよく書いた。趙普が西洛を守った際の府中の牋疏はみな希閔が作り、府掾に奏署されようとしたが固辞し、普は給贍を優加した。張斉賢・李沆・薛惟吉・張茂宗が継いで府事を領しみな優待した。三十九歳で卒し、集二十巻がある。自ら三人の子日華・日厳・日休に教え、みな進士に登第。日華は都官員外郎、日厳は職方員外郎、日休は殿中丞となった。希閔の弟の希甫は淳化三(992)年、進士に及第し屯田員外郎に至り、従子の日宣も進士に登第した。