出自と経歴
- 許仲宣、字は希粲、青州の人。後漢乾祐年間、十八歳で進士に登第。後周顕徳初年、済陰主簿に授けられ、考功員外郎の張乂に推薦され淄州団練判官となる。宋初、召に赴き便殿で引見された際、仲宣の気貌が雄偉で太祖はこれを喜び太子中允に抜擢、詔により北海軍知事となる。仲宣はその山川の形勢・地理の広袤を測り州郡たるべしと図を作って上奏し、遂に濰州に昇格した。牧馬監を建てる議があり仲宣に諸州を視察させ善地を得た。太原征討に従い四十余州の給納を掌り資糧を悉く集事したため帝はますますその彊幹を知った。
- 開宝四(971)年、荊南転運事を知り、江南征討では南面隨軍転運事を兼ね、兵数十万への供饋に欠けなく、南唐平定後は漕輓の功により刑部郎中を拝し、謝恩の日に殿に召し奨諭し緋を賜った。九(976)年、永興軍府事を知る詔を受け、太宗嗣位により兵部郎中に遷り驛で闕に召され金紫を賜り西川転運使を授けられた。西南夷が辺境を寇した際、仲宣は自ら大度河に至り逆順の理を諭し威福を示し、夷人はみな服した。江表用兵の際、仲宣が官銭を乾没していると言う者があり召還され、御史台に財計簿をすべて索させ数年かけて鈎校したが欺瞞は見つからなかった。広南転運使に改められ、交州征討では炎瘴により士卒の死者が十二三に及び、大将の孫全興らが軍律を失う中、仲宣は撤兵を上奏し許可を待たずに兵を分けて諸州に屯し倉庫を開いて賞賜し檄を書して交州を諭すと、交州は帰順し使いを遣わして貢を修めた。仲宣は再び罪を待つ上章をし帝はこれを嘉した。
- 太平興国六(981)年冬、南郊が終わり吏部郎中に遷り、八(983)年、膳部郎中知雑の滕中正・兵部郎中の劉保勲・刑部郎中の辛仲甫とともに久しく郎署にあったとして諫垣に抜擢され、仲宣は左諌議大夫となり、まもなく召還され本官のまま度支を権判す。雍熙四(987)年、広州知事に出たが未着任のうちに江陵府知事に移り、まもなく河南府に改められ、端拱中、給事中に遷り、淳化元(990)年、六十一歳で卒した。仲宣は性寛恕で倜儻、大まかで心計に富んでいた。かつて済陰主簿であった頃、令とともに県印を分掌していたが、令の嬖妾が室と寵を争い令が禁止できずにいた際、嬖妾は主を陥れようと印を密かに盗み、封識を元通りに仲宣に授け、翌日発覚した際印がないため吏数輩と令の簿の家人を捕らえ鞫問し、令の家の竈突の中から果たして印を見つけ出した。令は驚愕したが仲宣は落ち着いて処理し、人はその度量に服した。江南征討に都部署の曹彬に従った際、陶器数万を士卒の燈具として取り寄せるよう命じられたが、仲宣は既にその数を予め用意していた。才幹はこのようであった。子の待用は国子博士に至り、待問も進士に及第し殿中丞に至り、待旦は比部員外郎に至った。待用の子の巨源も進士に登第した。