宋史卷二百七十 列傳第二十九 王明

出自と経歴

  • 王明、字は如晦、大名成安の人。後晋天福年間、進士に挙げられなかったが驍騎将の薬元福が原州刺史となり従事に辟され、馮暉が霊武を制すると観察巡官として表された。後周広順初年、元福が陳州防禦使を領し判官に署された。劉崇が晋州を寇した際、元福が兵を率い援けることとなり多くを明に諮った。州県吏が丁壮に糧餉を送らせたところ一晩で夫がみな逃げてしまい、元福は怒り官吏を軍門に出して斬ろうとしたが、明が馳せて止め、元福に「今、軍儲に欠けがなく丁夫数万人がいる中、文吏が懦弱で制御できず斬っても益がなく、寛大に待つほうが良い。賊が敗れ凱旋すれば専殺の悪名を負わずにすむ」と説き、元福は感悟しみな死を免れた。まもなく崇の衆は宵に遁れ、元福は建雄軍節度留鎮を命じられ、明を書記として奏署し緋魚を賜った。
  • 顕徳初年、元福が陝に移鎮すると功を恃んで驕恣となり、明が直言でこれを規したため周りに嫌われ元福も次第に疎んじた。明は父の病により帰省を求め、元福が何度も召しても謝絶し闕に上書して州県への任を求め、清平・郾城の二県令を歴任。宋初、荊南の高継沖が入朝すると彭門節鉞を授けられ、明は武寧軍節度掌書記に充てられた。乾徳初年、公卿近臣に清白で吏幹ある者を推薦させた際、給事中の馬士元が明を挙げ、召されて左拾遺となる。蜀平定後、栄州知事に選ばれ代わって帰り右補闕に遷る。嶺南への出兵に際し荊湖転運使に選ばれ、開宝三(970)年の南征では隨軍転運使を務め、山路が険絶で舟車が通じない中、丁壮数万人で転逓供億させ、一郡一城を下すごとに先にその簿書を保ち倉庫を守った。
  • 賀州が未だ下らない際、明は主帥に「急ぎ取るべきだ。援兵が至れば勝敗は分からない」と説き、諸将が猶予する中、明は甲冑を身につけ護送の輜重卒百人を率い丁夫数千を擁して塹壕を埋め城門に直抵し、城中は開門し帰順した。そのまま広州に迫ると賊衆十余万が拒戦し、その夜、大風で屋を壊し木を折ったが、明は都部署の潘美らと謀り丁夫数千人に二炬ずつ持たせ間道から賊壘を襲わせ、大軍は食事を蓐して陣を布き待つと、万の炬火が発し柵を焼いた。賊は驚き来犯するも大軍が迎撃し賊は大敗し数万を斬首、劉鋹は城を降して広州が平定された。太祖はその功を嘉し秘書少監・韶州刺史・転運使を授け、まもなく潘美・尹崇珂が嶺南転運使となると明を副使とし、明は部内をあまねく巡り民の疾苦を視察し、旧来の名目のない課税を悉く条奏して除いた。嶺表は安定し、七(974)年、代わって帰り帝に召見され慰労され、襲衣・金帯・鞍勒馬を賜った。
  • この年、南唐を討つ軍が興る前に明を黄州刺史とし、帝は密かに成算を授けた。明は着任後すぐ城壁を修葺し士卒を訓練し、その意図は誰にも分からなかった。まもなく王師が荊渚から戦艦で下る際、明を池州から岳州までの江路巡検戦櫂都部署とし、鄂州軍を江南で撃ち三百級を斬首、また武昌で万余人を破り、江南軍七百人を殺し樊山砦を抜き江州軍を破り三千級を斬首、また江中で江南軍三百人を破り船十余艘を獲、湖口軍万余衆を撃破し戦艦五百艘を奪った。この時、南唐将の朱令贇が上江から兵十五万を率い大艦を連ねて流れを下り采石の浮橋を焼いて金陵に赴援しようとしていたが、明は舟師を独樹口に屯し子を遣わして戦艦三百艘の増造を奏請した。帝は「急ぐ必要はない。令贇が朝夕に至れば金陵の囲みは解けよう」と言い、密かに人を明に遣わし洲浦間に長木を樹てて帆檣に見せかけさせると、令贇は望見して大軍が背後を襲うと疑い逗留し進まなかった。明は諸軍に檄を移し互いに掎角させ、船を督して襲わせ、小孤山に至り諸軍と合勢し大破、令贇を捕らえ、その衆の水死者は十五六に及んだ。
  • 金陵が平定されると明は諸郡の安撫を詔され洪州を知り、太宗即位により江南諸路転運使を兼領、右諌議大夫に召され三司副使を充てた。太平興国七(982)年、侯陟とともに三司事を判し、八(983)年、三司を分けて各使を命じられた際、左諌議大夫から鹽鐵使に改められ給事中に遷る。雍熙四(987)年、光州刺史に改められ并州知事に出た。端拱元(988)年、代還後、換秩を表求し礼部侍郎に改められた。契丹が辺を擾した際、明を真定府知事とし契丹は遁れ去った。淳化初年、闕に召され京朝官差遣事を知り、二(991)年、七十三歳で卒した。子の挺・扶はともに進士及第し台省を歴任、しばしば転運使となりみな知名であった。挺は殿中侍御史に至り、扶は集賢院に直し工部員外郎に至った。景徳中、幼子の掞を光禄寺主簿に録し、大中祥符八(1015)年、孫の師顔を三班借職に録した。掞は殿中丞に至った。