宋史卷二百七十 列傳第二十九 劇可久

出自と経歴

  • 劇可久、字は尚賢、涿州范陽の人。沈毅方正で法令に明るく、馮道・趙鳳と友であった。後唐同光初年、鳳の推薦により徐州司法に補せられ、能吏として聞こえ大理評事に召され緋を賜り、年を越えて大理正に遷ったが、獄治を誤って登州司戸に降格、赦により著作郎に召された。後晋に仕え殿中少監・太子右諭徳・大理少卿を歴任し金紫を賜る。後晋高祖の崩御の際、可久は病告中にあり国哀に赴かなかったことを有司に糾弾され免官されたが、まもなく復官し大理卿に遷る。
  • 後周広順初年、太僕卿に改められ、再び大理卿となる。鄭州の民李思美の妻が夫が私に塩を鬻いだ罪は死に当たらないと御史台に訴えたが、判官の楊瑛が大辟に処していた事件で、有司が瑛を摂治すると瑛は罪を認めたため可久は瑛の断罪を失入として三等減じ徒二年半とした。宰相の王□は瑛を殺そうとし可久に「死者は生き返らない。瑛が人を枉げ殺したのを許せようか」と迫ったが、可久はますます議を固持し瑛は死を免れた。これにより□の意に忤い太僕卿に改められ西京分司となった。
  • 顕徳三(956)年、推薦した官が贓罪を犯したことで可久も連座停任、翌年再び起用され右庶子となる。世宗は刑書が古く条目が繁細で検討しにくいこと、前後の勅格も互いに矛盾し詳審しがたいことから律令の刪定を命じ、中書門下が「刑法は人を御する銜勒であり弊を救う斧斤であって、堯舜の世でもこれなくして治まることはできない。朝廷が用いる律十二巻・律疏三十巻・式二十巻・令三十巻・開成格十巻・大中統疏十二巻、後唐以来の編勅三十二巻などは、律令が文辞古質で解しがたく、格勅は条目が繁多で疑いを生じやすい。これを画一の規に整えるべき」として、侍御史知雑事の張湜・太子右庶子の劇可久・殿中侍御史の率汀・職方郎中の鄧守中・倉部郎中の王瑩・司封員外郎の賈玼・太常博士の趙礪・国子博士の李光贊・大理正の蘇曉・太子中允の王伸ら十人に新格の編集を命じた。令のうち難解なものは注釈を加え、格勅の繁雑なものは事に随って刪削し、矛盾や軽重の失するものはすべて改正し、畢れば御史台・尚書省四品以上および両省五品以上の官が参詳し中書門下に送って議定することとした。
  • 湜らは都省に集議し刪定を進め、大官が供膳を供した。五(958)年、書が成り、凡そ三十巻、名づけて『刑統』とし、宰相は天下に頒ち律疏・令式とともに行うことを請うた。可久は再び大理卿を拝し、建隆三(962)年、告老し光禄卿に改められ致仕、七十七歳で卒した。可久は廷尉(大理)に四十年在り、用法は平允で仁恕をもって称された。